作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 〈カラコロカラリーン〉心地よく響く鈴の音を伴って、店の扉が快活に開けられた。 「あっ、景子さん。おはようございます」栗原美津江は右手の拳を下げ、首を軽く落とすような仕草で動かした。こうして、たった今店に入ってきた四十がらみの色白で少しふっくらとした女性に手話を交えて挨拶を送ったのだった。  すると、嬉しそうな笑みを浮かべ、その女性もまた会釈を返した。 「おはようございます。景子さん」厨房の内で本日のランチメニューの下拵えをしていた藤村隆司が、ウサギが跳ねるようにして、慌てて飛び出してくると、この女性の持つ大きく膨らんだレジ袋と雨傘を急いで自分の手に持ち替えた。 「重たい思いをさせて、どうも申し訳ありませんでしたね、こんな土砂降りの雨の中。しかも、パックの牛乳まで頼んだりして」藤村が申し訳なさそうに頭を掻くと、二人から「景子さん」と呼ばれているこの女性は、眼鏡越しの優しい眼差しで、藤村の口元をじっと見つめながら、(いえいえ、とんでもない)とでも言いたげに、首を数回左右に振って見せた。  栗原美津江と藤村隆司が親愛の情を込めて「景子さん」と呼んでいるこの女性、鳥飼景子は、この店のオーナーである鳥飼源太郎の一人娘で、父親がマスターとして店の切り盛りを行っていた頃から今も変わらず、材料の仕入れや経理事務といった裏方を一手に請け負っていた。そして、それに加え、毎日決まって昼前には店に出て、一日で一番忙しくなるランチタイムには、藤村と協力して厨房の内で調理を受け持つのだった。  鳥飼景子は、思春期の頃に心理的要因による突発性の難聴に見舞われ、それが元で殆ど耳が聞こえなくなってしまった。声は出せるのだが、長い間こうした状態にあるため、発音と発声の加減が掴みづらくなり、人とのコミュニケーションは、もっぱら筆談や手話に頼ることが多くなった。しかし、話し手の口の動きで、相手の言っていることも十分に理解できる。だから、さっきは栗原美津江の余り上手とはいえない手話での「おはよう」に対しても嬉しそうに微笑んだという訳であった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません