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「お前なんかに、俺の気持ちが分かるもんか」 「ええ。分かりっこないわよ。昼間から酒ばかり呑んで、新しい勤め先も探そうともしないアンタの気持ちなんか分かるはずないじゃないの。それより、一体どうするのよ。失業手当も今月で切れちゃうんでしょう。お腹のこの子も後二ヶ月もしたら生まれてくるのよ。アンタ、父親になるのよ。しっかりしてよ」 「お前はいつもそうだ」 「何が?」 「いつも上から目線なんだよ。お前が短大出で、俺が高卒だからって、馬鹿にしているのか」 「何を訳の解らないことを言っているのよ。だいたい、会社を辞めたのだって、元はと言えばアンタの我が儘じゃない。新しい課長さんと意見が合わないって衝突して、それで後先のことも考えずに、しかも、私にも黙って辞めちゃったんだから。ほんと、あんな良い会社を、自分のつまらない意地だけで辞めちゃうなんて、呆れかえって言葉も出ないわよ。アンタも自分の意地を通したのなら、私とこの子のために何とかしなさいよ。男なんでしょ、アンタ」 「うるさい!」  世間では、夫婦喧嘩は犬も喰わないと謂われるが、家庭生活の根幹にかかわるお金がその原因となると、一朝一夕で事が収まるとは考え難い。  水口良江は、目の前で展開されている夫婦喧嘩に、しかも、その当事者が自分と沼田孝治らしい人物という、この奇妙な取り合わせを目の当たりにして、不思議な気持ちに陥った。  短大の家政学科を卒業した良江は、母親の多恵の従兄弟が経営する工務店に事務員として働くことになった。  個人経営とはいっても、中堅の工務店として、大工や左官など多くの若い職人を抱えていたから、事務員として働く二十歳の良江に興味を持ち、交際から結婚を目的に近づいてくる男性もありそうなものなのに、そうした縁は、良江には皆目降って湧いてこなかった。  それというのも、確かに目鼻立ちは整い美人の部類に入る良江ではあったが、どことなくツンとそっぽを向いたように取り澄まし、若い職人たちが話しかけても、木で鼻を括ったような返事しかしない良江に、居心地の悪さを感じてしまった結果だと思われた。また、良江にしても、職人そのものに、気ままで荒っぽいといったようなマイナスのイメージが、心の片隅に痕跡として残っており、そのため、親しみのある態度で接しようとする気が端からなかったのだ。  そして、多分にこの痕跡は、良江が中学二年生の時に不慮の事故で亡くなった父親の影響によるものであった。  良江の父親は、腕が良いと評判の電気配線工であったが、その腕に自惚れるところがあった。そのため、気に入らない事があると、誰かれ構わず悪態をつき暴言を浴びせた。また、むらっ気が多分にあって、気分次第で急に仕事を休んだりもした。  子供の頃に、こうした父親を通して植え付けられた心情が、良江を職人嫌いにさせた遠因であったのかも知れない。 「何がうるさいよ。グダグダ言ってる場合じゃないのよ、アンタ。今のこの現状が分かってるの。さあ、さっさと着替えて、ハローワークへ行って、仕事を探してきなさいよ。さあ、さあ早く、早くってば!」箒で掃かれる紙屑のように、良江に追い立てられた孝治の眉間に、怒りに根ざした深い縦皺が二本寄った。

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