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(嫌だ、嫌だ、嫌だ。あのクレーマーの奴)背を丸め、厚手のコートの襟を立て、良江の方へ向かってくる女の意識が良江に還流する。 (どうして、あんな会社に勤めたんだろう。そりゃ、商社としては一部上場の大手だし、給料だってまあまあ。それに、短大で仲の良かった聡子も一緒だったから、親元を離れて二人仲良く人生をエンジョイしようとする気持ちもあったから・・・・・・。それに、そうだ。そうだった。あの時の母さんの言いぐさにも腹が立って、敢えて反発をしたく思ったから・・・・・・。そう、私が今の会社の内定をもらって、母さん、私、東海商事から内定をいただいたから、そこに就職することにするねって言った時、決めつけるように、良江、お前に商社の仕事なんて絶対に向かないよ。無理さ。きっと、途中で嫌気がさして辞めてしまうに決まっているよ。それより、母さんの従兄弟が経営している工務店に勤めたらどうだい。事務の仕事をする人が欲しいって言っていたから、頼んどいたよ。あそこなら仕事もきつくはないし、何でも地道にやるお前にピッタリだ。それに、ここから三十分もあれば楽に通えるしね。だからさ、良江、東海商事は断っておいで。本当は私、あの時、面接の時に、女性でも営業につくこともありますし、残業は覚悟しておいて下さいと言われたことが気になって、少し不安だし迷っていたんだけど、母さんのあの断定的な言い方に、ついカッと頭に血が上って、理性も何も吹き跳んじゃって、結局は東海商事に入社して、独身寮に入ることに決めたんだっけ。そうか・・・・・・もう五年目か。人生をエンジョイなんて、お笑い種よね。入社して、研修期間が終わるや否や物流課に配属され、毎日残業につぐ残業。その挙げ句、休みの日なんて、遊びに出かける元気もなくて、夕方近くまで寮のベッドにもぐりっぱなし。それに比べて聡子は、あの子は営業に回されたんだけど、要領も良いし、私と違って愛想も良いから、みんなから重宝がられて、それほど可愛くも美人でもないのに、去年社内恋愛の末に寿退社しちゃって、今じゃ、ドイツのルクセンブルク支社に転勤になった旦那と一緒に外国暮らしか・・・・・・・それに引き替え私ときたら・・・・・・、この四月からお客様相談室に移動させられ、何がお客様相談室なのよ。結局はクレーム処理係じゃないの。相手の暴言にじっと耐え、ただ、ペコペコと頭を下げて謝るだけ。馬鹿みたい。今日だって、お前のその無愛想な態度が気に入らないとか、そのシラーとした言い草がムカツクなんて、いくら得意先だからって、あの男、頭おかしいんじゃない。結局、室長に電話を代わったんだけど、さっき対応に出た奴に直接謝りに来させろ、って迫られて・・・・・・、どうして私が退社後にこうして相手の会社まで足を運んで謝りに行かなければならないのよ。こっちこそムカツク。アーア、もうこんな会社辞めてやろうかな・・・・・・もう、嫌だ、嫌だ、嫌だ)  東海商事に勤める二十五歳になる良江が、その心理状態に呼応するように、ズカズカとした足取りで自分の方へと近づいてくる。 (二十五歳のはずの私が、あんなに太って、頬から顎にかけて肉が弛んでいる。お店のイルミネーションのせいかも知れないけど、何か青白く浮腫んでいるみたい。ストレスの捌け口に、きっとドカ食いしているんだ。嫌だ、嫌だ。あんなふうな私)良江が違う世界の自分に鳥肌が立つような嫌悪感を抱いた時、横合いから二人の高校生らしい女の子が、子猫がじゃれ合うようにキャッキャとお喋りし合いながら近づいてきた。と思った瞬間、自身の存在を感じている良江を「あっ!」と言う間にすり抜け、クレーマーのいる会社に赴こうとしている良江の側に向かって行った。 すると、一 人の子の手にぶら下げられた不規則に揺れる学生カバンが、足の爪先あたりに重心をかけて歩いていた良江の左の膝頭を直撃した。 (痛ッ!)激痛が走った途端、膝が崩れてバランスを失った良江は、顔面から前のめりに倒れ込んだ。  咄嗟に手の平を路上について、踏ん張ってはみたが、残念ながら日頃の不摂生が祟り、その体重を持て余した良江は、右の頬から路面に滑り込んだ。 「痛い、イタタタ」その弾みで厚く塗られたファンデーションがそげ落ちる。 「何するのよ!あんた!」良江がやっとの思いで体勢を立て直し、首をあげて相手を睨み付けようとしても、くだんの女子高生の姿は、もうとっくの昔に人混みに紛れ込んだ後であった。 こんな哀れな姿になった良江に向かって、誰も手を差し出すこともなく、いや、それどころか、汚れて黒くなった右の頬と白壁のような左の頬のアンバランスさを見て、道行く人の誰もが、声を押し殺した嘲笑を良江に浴びせながら通り過ぎるのだった。 (何て惨め・・・・・・な私)そうした思いをまたしても強く意識した良江は、またしても何者かに操られるように再び進み始めた。が、その矢先、真向かいの服飾店のショーウインドーに白い靄のようなものが映し出されているのを感じた。 (あ・・・・・・れ、またか。白い〈のっぺらぼう〉の姿。あれって、もしかしたら私?) 楕円形の〈のっぺらぼう〉が、渦を描くように拡散し、全ての風景を包み込むように覆い尽くすのを感じた途端、良江 は白一色の世界に居る自分と、また、それとは違った別の自分の存在を意識したのだった。

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