キッチンシンクじゃ泳げない
14-♥♥♥♥♥♥♥♥

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「あの時、私は・・・・・」目の前で滝が流れ落ちるように、全ての風景が朧気に霞んだ。そして、はっと過去の意識が断ち切れるのを感じた途端、桜色の写真立ての中で嬉しそうに笑う亜希の姿があった。 「ご免ね、亜希。私は本当に馬鹿だった。馬鹿だったわ」亜希を亡くしてから二十数年経た小夜子の歪んでざらついた頬に止めもなく涙が降り注ぐ。  確かに、キャリアウーマンとしての小夜子は成功を収めた。  小夜子のアイデアにより商品化した製品が大ヒットを記録し、そのお陰で会社の業績も右肩上がりに推移することになった。  当初は地方の二部上場の中堅企業であったものが、今や東京に本社ビルを構える一部上場の大手企業へと変貌を遂げた。  そして、当然のように、会社の成長に伴い、小夜子の役割と役職もより責任のある地位へと上っていった。  現在の小夜子は、取締役の一人として本社の商品開発本部長を任され、将来は創業以来初の女性社長として、確固たる地位を築くものと、社内を問わず社外においても、もっぱらの評判であった。  しかし、あの日以来、すなわち、亜希を永遠に失ってからというもの、小夜子の心に穿たれた空洞は日増しに大きく成長し、その空洞には絶望的な悔恨が膿のように溜まり続けるのだった。  そして、それが堰を切ったように溢れ出す。 (あーぁ、亜希。掛け替えのない大切な亜希を、私は亡くしてしまった。いえ、私が亜希を死に追いやったようなものだわ。あの時も、そう・・・・・、狂気としか言いようない考えに囚われ、悪魔のような所業をしてしまいそうになったんだもの。亜希が目を開けて、私のことを呼ばなかったなら、私は亜希をこの手で殺していた。ああ!恐ろしい!恐ろしい!だから、私は苦しむのが当たり前。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜けばいいのよ!!こうして、一生、胸が張り裂けるほど苦しみ、悲痛に耐えかね身悶えることが、私が亜希にしてあげられるたった一つの供養になる・・・・・そうよ) (ソンナコトハナイ)吾は意識を小夜子に送った。 (ソンナコトハナイ。アキハ、ソレヲノゾンデイナイ。アキノコトバヲ、オモイダセ「亜希、ママのことが好きだったのに」)  吾は亜希の小夜子に寄せる温かな思いやりをブレンドした意識を小夜子の意識に還流させた。 「亜希ぃ!あなたは、こんなママでも愛してくれていたのに、私ったら・・・・・、ウ、ウ、ウ・・・・・、そうだ!もう一度、もう一度、あの時に戻れるものなら、全てを投げうっても構わない。亜希が、亜希が、まだ私の目の前にいたあの日に戻りたい。戻りたい!そして、亜希に、私の亜希にもう一度会いたい。その愛しい亜希を、この両手でしっかりと抱きしめたい。そして、絶対に私の命に代えても、亜希を病魔から守ってみせる。どんなことをしても、たとえどんなことをしてでも亜希を元通りにして、僅か八年間なんてじゃない、素晴らしい未来を、人生を手に入れさせてあげるの。私、命なんていらないから。あの日に・・・・・あの日に・・・・・どうか誰か戻して、ク、ク、ク、お願いだから・・・・・お願い、お願いよ」小夜子は虚ろな瞳で、よろけるようにガラスケースからバカラのグラスを取り出すと、その傍らにあったシングルモルトの瓶から琥珀の液体を注ぎ込んだ。 「亜希・・・・・愛しい亜希・・・・・もう一度、もう一度、ママと、ママと一緒にいて・・・・・」キラキラと煌めくグラスの縁が小夜子の乾いてざらついた唇に触れた瞬間・・・・・  この世界の時間の流れが停止した。  この状態から、この世界を構成しているあらゆる事象から質量が抜け落ち、一枚の薄っぺらな紙のように、世界がクルクルと巻き込まれるように収斂していったと思った刹那、この世界の扉がバタンと閉じられたように消滅した。

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