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***************  吾は昭和二十年三月十七日の午後五時二分、強引に引き込まれるようにして栗原美津江の肉体に注入された。その瞬間、美津江の生命の危機を感じ取った吾は、安全策を講じるため、時空間の転移を試みた。少々焦っていたこともあり、闇雲にその様な処置を行った結果、美津江の肉体を五十六年先の未来、すなわち平成十三年同月同日同時刻に転移させてしまったのだった。つまり、現時点からは二年と十五日前になる。  意識体である吾が物質に接触するなんてことなど思ってもみなかったことだ。しかも、この世界の人間の肉体を纏う羽目になることなど信じ難い。  この衝撃により、恥ずかしいことに吾は、パニックを引き起こしてしまった。   けれど・・・・・・、体勢を立て直すと、栗原美津江の意思、思考、記憶を瞬時に取り込み、栗原美津江というこの世界に生息する・・・・・・いや、過去に生息していたが、現在に連れてこられた人間として、自らの尊い使命を全うするための準備を万端怠りなく整えた。  ただ、残念なことには、あの衝撃が災いして、吾がこの世界に派遣された使命が一体何を意味するものだったのか、吾から完全に剥奪されてしまったようだ。  でも、まあ・・・・・・、そのうちにジグソーパズルのピースの一欠片のように、その欠け落ちて迷子になった意識は無事に吾の中に戻ってくるだろうと確信している。  だから、その使命を果たし、栗原美津江の肉体から立ち去る際には、この非常にデリケートな〈容器〉を出来るだけ無断借用する前と同じ状態、すなわち、原状回復で栗原美津江に返却する責任と義務があると、吾は吾なりに痛感している。  特に、吾が起こした不要な行為や不注意な行動による肉体の損傷に関しては、誠心誠意そのケアに努めなければならないと、常日頃から肝に銘じている次第である。  なお、栗原美津江の個人の特性として、数ある癖の一つに、考え事をする際に、髪の毛を無造作に引っ張る行為があるが、吾も本人と同化したことにより、自然とこの行動をとってしまうことになる。でも、まだ、肉体を保持しだしてからの期間も経験も乏しく、加減というものの微妙なニュアンスも掴みきれず、ほんのちょっとしたことなのだが、指の筋肉が過度に働いてしまい、結果、その度に髪の毛を数本単位で抜いてしまうのだ。  それで・・・・・・そう、さっき抜いてしまった七本の髪の毛も、これまでの分と合わせると全部で五十三本になるはずなのだが、丁重にティッシュペーパーなるものに包んで、大切に保管することにしている。  吾が栗原美津江に、この肉体を返す時期が来れば、吾は何かの方策を試みて、吾が不作法で抜いてしまった髪の毛の全てを元通りにしてさしあげるつもりでいる。  そう。吾は人間で云うところの至って律儀な性格なのである。                             ***************

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