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 お昼のランチタイムで、早々に店内が混み始めた喫茶店を後にして、水口良江が、母親の多恵の入所する施設に近づく頃には、風は幾分か弱まってはいたが、雨脚はまだ比較的激しく、路面のアスファルトに落ちて反射した雨粒の群れが、ピチャ、ピチャと踊るように跳ね返っていた。しかし、どんよりと暗くて腫れぼったい雨雲のあちらこちらで幾つかの亀裂が生じ、今後の天候の回復の兆しを暗示しているようでもあった。 (今日は、どんな具合なんだろう。私のこと、少しは分かるのかしら、母さん)  御影石の立派な門柱に嵌められた〈高齢者介護施設喜寿の里〉〈デイサービスセンター福寿園〉と併記された金属プレートを一瞥した際、良江の脳裏にそんな思いが過ぎった。  雨に濡れるのを気にしながら、足早に歩を進めると、いつものように、正面玄関前のロータリーには、デイサービスセンターの利用者を送迎するための福祉車両が二台とマイクロバスが一台並んで止まっていた。  自動ドアを通り抜け、濡れ細った雨傘を傘立てに立て掛け、エントランスホールに入ると、左手側の受付カウンターに向かった。良江が近づくと、その気配を感じたのか、机に座って仕事をしていた顔見知りの女子事務員が笑顔を振り撒きながら近づいて来た、 「こんにちは、水口さん。お母さん、先程、お昼のお食事を済まされたみたいですよ」 「そうですか。いつもお世話になっております」カウンター越しに簡単な挨拶を交わすと、良江は、「では、また」と言葉を区切り、エレベーターのある方へと向かって行った。  母親にとって、終の棲家となった個室の前に佇み、その入口に引かれているアイボリー色のアコーディオンカーテンを目の前にして、良江は「ゴクリ」と、生唾を一つ飲んだ。 (否定することはよくないこと・・・・・・)先週、ここへ来た時に、担当の介護士から諭された言葉が脳裏に流れた。 「母さん、来たよ」勢い好くカーテンを引くと、良江は部屋に入り、母親の多恵の寝ているベッドへと近づいて行った。 「母さん、調子はどう?」仰向けに寝ている多恵は、顔だけを良江の方へ傾け、目をしょぼつかせた。 「お昼、もう済んだみたいね」 「まだ、食べてない」 「何を言っているの。下の事務員さんが、お昼、もう済んだって、言っていたんだから」 「まだ、食べてないんだよ、良江」 「あっ、母さん、今日は私のことが分かるんだ」良江の心が少し弾んだ。 「ちょうど良かったよ。良江が来てくれてさ」 「何なの?母さん」 「あれを取っておくれよ」 「どれ?」良江は、ベッドの横に置かれたキャスターの付いた木製のサイドテーブルの方へと回った。 「このハンドタオル?それとも・・・・・・」 「良江、そこじゃないよ。あそこさ」多恵は静脈の浮き出て骨張った細い右の腕をゆっくりと持ち上げると、人差し指で自分の足下の方を指さしたのだった。 「えっ?」良江が母親の指さす方向へと視線を移した。 「ああ、そうか。ムシムシして暑いから、上布団の足下を捲れってことね」 「違う!違うよ。白い〈のっぺらぼう〉が、アタシの足下にいるだろう。そいつらを、早く引き剥がしておくれ」 「・・・・・・」良江は息を呑んだ。 「何、何を馬鹿なこと言っているのよ、母さん。何が〈のっぺらぼう〉よ。そんなの、いるわけがないでしょう!」 「いるさ。そこにいるじゃないか。ほら、いち、にー、さん。五匹もアタシの足元にうずくまっているじゃないか。あいつら、今朝から姿を現して、アタシの脚をしゃぶるんだ。ペチャクチャペチャクチャって。気味が悪いんだよ、早く取っておくれ。お前、分からないのかい?」瞬間、良江の顔の筋肉が鉄仮面のように固まり、頭の芯がジィーンと痺れたように感じた。 「いないわよ!!何、訳の分からないこと言っているの。そんなモノ、いる分けがないでしょう!!もう、母さん!しっかりしてよ!!」良江は無我夢中で喚き散らしていた。 「いるさ、良江・・・・・・。どうしてお前は、アタシと反対のことばかり言うんだい。ほら、そこだよ。よく見ておくれ」多恵は、口をダラリと開け、怯えたような目で自分の足下の方を指さし続けた。 「反対のことばかり言うって?反対のことばかりって、誰が?母さん、それは、アナタじゃないの。私の言うこと、することに、これまでずっとケチをつけ、反対し続けたのは、一体誰なのよ!それはアナタじゃない!よくも、そんなことが言えるわね」良江は、堰を切ったように、自らの感情をほとばしらせ、多恵をきつく睨むようにして捲し立てた。

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