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 翌日の土曜日の九時過ぎ、川村テル子は昨日練った計画通り、イソイソと自宅を後にした。  緩やかな下りのスロープをゆっくりとした足取りで進んでいくと、白い大型のワゴン車がエンジン音を轟かせ、駆け上がってくる。やり過ごすように、テル子は路の端に寄り、その車の中をフロントガラス越しに見ると、その車には、あの吉井佐知子の息子夫婦とその子供の姿があった。  それを目にした途端、テル子の心臓に動悸が走り、胸を締め付けられるような苦痛を感じた。 「まあ、今、ご実家に、ご帰還ってわけね!」その気持ちの動揺を掻き消そうとするかのように、テル子はわざと強い口調で吐き捨てるように言い放った。  神戸電鉄の駅の券売機で切符を買い求め、テル子が上りのプラットホームの長椅子に腰掛けようとした時、バサバサと擦れ合う鳥の羽音が聞こえた。 「川村の婆さん」その湿ったような声に、反射的にテル子は顔を上げ、向かいのホームを眺めた。 「そんな所じゃないよ。上、上。上を見なよ、婆さん」テル子がゆっくりと視線を上げていくと、黄色いケーブルに鴉が一羽止まっていた。 「まさか・・・・・、今度は鴉?」テル子の心臓はバクバクと鞴のように鼓動を打ち鳴らし、手の平にはジットリとした冷や汗が滲んできた。 「犬じゃなくて、鴉で悪かったな。この婆あ。家から逃げ出したって、何処へ隠れたって、お前は独りぼっちの哀れな年寄りなんだよ。ほら、寂しいよ~、寂しいよ~って、泣いてみろよ。それとも、嘘八百を世間に撒き散らして、幸せな老人にでもなった気でいるのか。この嘘つき婆あ!」  テカテカと照り返った濡れたような真っ赤な大きな目で、ギョロリとテル子の顔を睨み付けると、漆黒の固そうなクチバシを上下にカチカチと動かすようにして、鴉が喋っていた。 テル子の膝頭がガクガクと小刻みに震え、背中からは冷たい汗がツーッと一直線に腰の辺りまで流れ落ちた。 「な、な、何よ!」  極限の恐怖に対する反動か、突然、テル子の心に怒りの嵐が巻き起こり、その感情が、理性の殻を突き破るような大爆発を起こした。 「何よ、あんたなんて、鴉のくせに、よくも私にそんなことが言えるわね。あんたに、私の何が分かるって言うのよ。私の思いなんか何にも分かっちゃいないくせに!!」テル子は、さも憎々しげに鴉を睨み、人差し指を刺すように鴉に向けると、一気呵成に言葉を飛ばした。 「じゃ、お前は自分の事が分かっているってカァ!この嘘つき婆あ」鴉は、テル子を挑発するように首をクルリと外側へ廻すと、羽を左右に揺らし、嘲るような仕草をしたのだった。 「オイ、僚太、あっちのホームのお婆さん、俺たちに文句でもあるのかな」 「耕助、よく見て見ろよ。ホラ、あの電線に止まっている鴉に怒鳴り散らしているだけだよ」 「へーぇ鴉にか?・・・・・ヤッパ、頭、おかしいのかな。あのお婆さん」 「そういう問題じゃないと思うけどな。うちの婆ちゃんなんて、毎日、炊飯器と話しているぜ。年寄りって、何とだって話したくなるものなんだってさ。鴉と喧嘩しているくらいだったら、まだ普通じゃないのか」 「ふーん。そういうものなのか」  日に焼けて浅黒い顔に赤いニキビを散らせた、まさに体育会系と思われる二人の男子高校生が、テル子の姿をチラチラと眺めながら、お互いに頷き合った。  そして、この二人の学生が、哀れみと労りと温かみとをミキサーで撹拌したような感情に彩られた視線を、再びテル子に向かって投げかけたその時、上り電車の到着を知らせる構内のアナウンスに連動するように、ゴーッという音響と風圧がホームに迫って来た。  電線に伝わる振動からか、それとも、テル子を言いくるめた優越感がそうさせたのか、鴉はバサバサと羽を大きく広げると、一声「アホー」と鳴き、飛び去って行ったのだった。  電車の乗降口が開くやいなや、テル子は転げ込むように、車内へと飛び込んだ。 額に浮かんだ汗が眼鏡のツルを通って、頬から顎、首筋へと流れ落ちる。バックをしっかりと握った両手の拳がワナワナと震え、足元も雲を踏むように覚束なかった。 「大丈夫ですか?」 「急いで、走って来たから・・・・・ありがとう」在り来たりの言い訳を返したテル子は、若い母親ふうの女性に支えられるようにして、オレンジ色の優先座席にそっと腰を下ろした。そして、息を整え、目を閉じた途端、そのまま意識が掠れるように薄れると、眠りに落ちていった。

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