「でも、今夜のランチメニューの試食会は賑やかでいいな。ゲストの亜希ちゃんや、いつもだったら一目散に姿を消してしまう栗原さんまで揃っているんだから。どう?どう、美味しい?」藤村隆司は満面の笑みを浮かべ、一緒にテーブルに付いている鳥飼景子、栗原美津江、そして小杉亜希の顔を見渡した。 「マスター、グーですよ。このスコッチエッグに付け合わせのホウレン草とキノコのソテーとカボチャのサラダ・・・・・アッ、これ、レーズンが入ってるんだ。それから、このオニオンスープも、みんなスッゴク美味しいですよ。ねぇー」この美津江の意見に合わせるように亜希も口を開いた。 「おじさん、とっても美味しいです」そして、景子が微笑みながら、右手の平で自分の右の頬をポン、ポンと二度ほど触れたのだった。 「マスター、よかったですね。景子さんのオーケーが出たみたいですから、これで、明日のランチメニューは決まりですね」この時、亜希が不思議そうに景子の顔を見つめた。すると、すかさず、景子が胸のポケットからメモ用紙とシャープペンシルを取り出すと、サラサラっとその用紙に何かを書き付けた。そして、亜希の方へと押し出したのだった。 『私、耳が聞こえないの。だから、人が話す声は聞こえない。でも、人の心の声はよく聞こえるのよ』 亜希は目線を滑らせるようにして、景子の書いた文字を読み取ると、嬉しそうにニッコリと微笑み、景子からシャープペンシルを借りると、景子の書いた文字の下に自身の気持ちを付け加え、メモ用紙を反転させると、景子の方へ戻した。 『亜希、そんな景子さん、ステキな人だと思います』景子の顔が弾けたように生き生きと輝いた。と同時に、横からそのメモを覗き込んだ美津江と藤村にもほのぼのとした笑顔が自然と広がった。 「偉い。亜希ちゃんは偉い」美津江の突然の褒め言葉に、ちょっと照れたように亜希が視線を窓際へと外した。すると、 「あっ、先生。鈴鹿先生だ」亜希の視線の先には、白っぽく人の姿がガラス窓に映っていた。 「本当だ」美津江は席を勢いよく立つと、大股で扉の方へと向かい、扉を開けると、鈴鹿女医を店内へと招き入れた。 「マスター、亜希ちゃんの主治医の鈴鹿先生です。もう一人分の料理を追加してもらってもいいですか」 「オーケー。いいとも!」藤村は美津江の要望に少し弾けたように応じると、席を立って厨房へと向かった。 「栗原さん、皆さん、どうも申し訳ありません。まだ、お店やっていると思って」美津江に促されて、景子たちが腰掛けているテーブルに恐縮しながら歩み寄って来た鈴鹿女医に、 「先生」亜希が明るく声を掛けた。 「あら、亜希ちゃん!亜希ちゃんもいたんだ」店内の照明のあらかたは落とされていたために、亜希の存在に気が付かなかった鈴鹿女医は、驚きと嬉しさを滲ませた表情で亜希に近寄ると、隣のテーブルの亜希の横の席に着いた。 「紹介しますね、先生。この店のオーナー代理の鳥飼景子さんです」美津江の口元の動きに合わせて、景子がニッコリと会釈をすると、 「私、この先にある小児総合医療センターに勤めております、鈴鹿と申します。お店、もう閉められていたのに、お邪魔して申し訳ありません」鈴鹿女医は景子に向かって深々と頭を下げた。 この時、景子は先程のメモ用紙の亜希の書いた下の余白に、言葉を付け加えると、さりげなく用紙を鈴鹿女医の前に移したのだった。 「・・・・・・・・・・・」無言のまま視線を落とし、そのメモに書き取られた言葉を目で辿った途端、鈴鹿女医の表情が一瞬の輝きを放った。 そして、今度は先程の亜希と同じように、シャープペンシルを借り受けると、そのなぞられた文字の下に、自身の気持ちを書き加え、ゆっくりと、景子の方へ差し出したのだった。 『私、耳が聞こえないの。だから、人が話す声は聞こえない。でも、人の心の声はよく聞こえるの』 『亜希、そんな景子さん、ステキな人だと思います』。 『遠慮しないで。先生と亜希ちゃんがいらっしゃったお陰で、今夜は思い出に残る夕食会になりそう』 『私、この場所にいられて、そして、皆さんに出会えたことに、今、心から幸せを感じています』三人三様の筆跡と字体で、各々の気持ちや思いが書かれたこのメモ用紙を、美津江、景子、鈴鹿女医、そして亜希が覗き込んだ。すると、じんわりとした暖かさがしみじみと各人の心に染み込んだように微笑みの輪が広がっていった。 「鈴鹿先生も偉い!」栗原美津江は、この偉いという言語が好きなのか、ただ単にこのボキャブラリーしか持ち合わせていないのか、またしても口をついて出たこの瞬間、つじつまを合わせたように、「クゥー」と鈴鹿女医のお腹が鳴った。 「あら、私ったら、いやだ」 「マスター、鈴鹿先生のお腹の虫が、まだか?って、催促してますよ」 「ちょうど今、あがったから、超特急で持っていくよ。先生のお腹の虫に、そう伝えといて、栗原さん」 「どうも・・・・・すいません・・・・・本当に・・・・・私ったら・・・・・恥ずかしい」鈴鹿女医の恐縮する様子に合わせるように、店内に屈託のない明るい笑い声が響いた。
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