―今から五年前のあの時 一人娘の亜希が満三歳の誕生日を迎えた年の秋口、小杉小夜子は亜希を自分の手許に引き取るという条件で協議離婚に応じた。そうした離婚に至るまでのプロセスはというと・・・・・・、いや、きっとそうした類のものは、結婚生活のスタートを切ると同時に根付き、日常の些細な出来事の積み重ねや行き違いを通じて、枝葉を張って成長してきたのかもしれない。 ともあれ、離婚後初めて亜希の手を引いて、小夜子が実家に帰ってきた時、これまで、娘の小夜子に対して意見めいたことなどを一切口にしなかった母親が、苦々しい口調でこう切り出した。 「小夜子、あなた、達也さんと別れられてよかったじゃない」一瞬にして、小夜子は顔の表情を強ばらせた。 「だって、これって、あなたの思い通りになったわけでしょう。家庭に縛られずに仕事に専念できるものね。それで、今日は、私とお父さんの所へ、もう一人の邪魔者の亜希を捨てに来たってわけよね。犬や猫のように」抑揚のない冷めた言葉だった。 「お母さん、馬鹿なことを言わないでよ!」母親の不愉快な言いぐさに声を荒げた小夜子は、ソファーに礼儀正しく腰掛け、テレビを見始めた亜希の方へ泳ぐような視線を送った。この時、死角になって気づかなかっただろうが、亜希は何かに耐えようとするかのように、ぐっと左手を強く握りしめ、それを胸に押し当てていた。 「亜希に聞かれても構わないじゃない。本当のことなんだから。あなたは何時もそうだった。自分さえ良ければそれでいい。自分のことしか考えない。常に自分を中心に置いてしか物事を見ようとしない。他の人のことなんて、所詮どうでもいいんだわ。そうでしょう」亜希はあえて、この二人とは懸け離れた世界で漂っていようとするかのように、ただ黙って、画面に映し出されるアニメを無表情で眺めていた。だが、この時、一人娘の小夜子と一歩も引かない構えで対峙している祖母が、ほんの一瞬だけ顔をずらりと、慈愛に満ちた優し気な眼差しで、孫の亜希を見つめた。しかし、再び小夜子に向き直る体勢に移ると、元の険しい表情に戻った。 「だから、亜希のためにも、さっさと亜希をここに残して、帰ってちょうだい。あなたに亜希を幸せになんてできるはずがないんだから。あなたと一緒にいると亜希が不幸になるだけだから」 「お母さんこそ何よ!私の気持ちなんか全く分かっていないくせに」表情を堅く縛り、目を大きく見開くようにして口火を切ると、小夜子は母親に挑むように切り返していった。 「今の時代はね、男も女もないのよ。女性だって、仕事をこなして認められて、それに見合ったポストを獲得する権利があるはずなのよ。そうよ、家事や育児に追われるだけじゃなく、仕事を通じて社会と深く関わりを持ち、それを自身の人生の生き甲斐に繋げていく、そんな生き方のどこがいけないっていうの。そりゃ、仕事を優先するあまり、家庭や家族に少しくらいのしわ寄せがあったかも知れないけど、そんなの男の人だって同じじゃないの。それが当たり前になっているじゃない。そうしないと、この社会じゃやっていけない部分があるのよ。それに、頑張ってキャリアを積んで出世すれば、経済的な余裕も生まれ、亜希にも一流の教育を受けさせてあげることができるし、将来的にも自分の好きな道にも進ませてあげられる。そうよ、結局、お母さんは、ずっと専業主婦として家庭という殻の中に閉じこもって生きてきたから、女性の仕事を持つ大変さや、その苦労というものが全く分からないのよ。一年三百六十五日、毎日、毎日、家の中で掃除、洗濯、炊事に明け暮れ、何の生き甲斐もなく、自分の人生を無駄に過ごしてきただけ。私は、そんな生き方なんて真っ平御免なのよ。どうなの、一体お母さんに自分の人生で胸を張って誇れるものがあったって言えるの。それに何よ、言うにことかいて、亜希をここに捨てにきたですって、冗談じゃないわよ。亜希の母親は私なのよ。亜希のことは、母親の私が責任を持って立派に育ててみせるし、誰よりも幸せにしてみせるわよ。お母さん達の世話にはこれっぽっちもならずにね」がむしゃらに言い募り、ここで小夜子が一呼吸を置いたその時- 「あるじゃないか、小夜子」いつ外出先から戻って来ていたのか、弾みのある声を伴って、父親が廊下からゆっくりとリビングに入って来た。 「母さんが自分の人生で最も誇らしく思えるもの。それはな、小夜子、娘のお前を立派に育て上げたことだよ」父親は反射的に振り返った一人娘の小夜子に柔和な微笑を投げかけた。 だが・・・・・・、 「さぁ、亜希、帰るからね。早くしなさい」父親の放った笑顔から逃れるように、敢えて父親を黙殺した小夜子は、お行儀よくソファーに腰掛け、一人でアニメを楽しんでいる亜希に向かって、尖ったような口調でこう促した。そして、小夜子の顔を不思議そうに見返す亜希を強いて立たせると、後ろからその背中を押すようにして、早足で玄関先に急いだのだった。 亜希に靴を履くように促し、自分もパンプスを突っかけたその時、 さっきまで気丈に娘と対峙していた母親の心から絞り出すような嗚咽の声が、リビングから廊下伝いに小夜子の耳に届いた。すると、玄関ドアの取手を握る小夜子の指先が小刻みに震えた。そして、得体の知れない何者かに胸の奥を鷲掴みにされたような感覚が沸き起こった。 -図星だわ。お母さんの言うとおり。私はこの子を邪魔に思って、それでここに来たのよ。 生唾をごくりと飲み込み、意を決したように、一気にドアを開けると、晩秋の紫がかった空から、幾筋もの雨脚が垂れていた。 -この雨、今の私には、きっと凍えるほど冷たいんだろうな。小夜子は降りしきる雨をぼんやりと眺め、そう感じた。 「小夜子、待ちなさい」その瞬間、背後から父親に呼び止められた。すると、レモン色の地に花柄の雨傘をそっと差し出された。 「これ、母さんのお気に入りの傘なんだ。お前が初めて就職した年の母の日に、小夜子、お前が贈ってくれたから。だから・・・・・・、また、いつか気が向いた時でいいから、必ず返しにきておくれ。待っているからな、小夜子」 「ありがとう、お父さん・・・・・・」小夜子は小さく頷くと、大事そうにその傘を両手で受け取った。 「おじいちゃん」傍らの亜希が心配そうに小夜子と祖父とを交互に見つめた。 「ああ。何も心配しなくていいんだよ、亜希。お前はいい子だ」祖父は亜希に微笑みかけながら、遠い昔を懐かしむように、その柔らかそうな髪を愛おしげに撫でたのだった。
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