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(いけない、もう十一時半だ)栗原美津江は、本日のランチメニューが記入されたホワイトボードを手に表へ出た。 扉横の真鍮製のフックにボードを吊り下げ、少し右に傾いていたのを直すと、 (よし、よし)と満足げに鼻の頭を掻きながら、店内へと再び足を踏み入れた。 その時― 〈カラコロカラリーン〉やや湿った鈴の音色を伴って、再び扉が開いた。 「いらっしゃいませ」反射的に美津江は扉の方へ振り返ると、入って来た一人の中年の女性客に向かってお辞儀をした。  上背はあるが少し痩せ気味のこの女性は店内をキョロキョロと見渡した後、厨房から一番近い四人掛けのテーブル席に腰掛けた。すかさず、美津江がグラスに入った氷水とおしぼり、そしてメニューを運んで行く。 「今日のランチメニューは・・・・・・」美津江が口を差し添えようとすると、 「そうね、パスタセット。カルボナーラで。それと、アイスコーヒーを」そう注文するや否や、素早くメニューを美津江に返し、隣の椅子に置いたグレーのショルダーバッグから煙草とライターを取り出した。そして、足を組むと、窮屈な力みから解放されたような表情を浮かべ、窄めた口先から紫煙を燻らせた。  このカルボナーラのパスタセットをオーダーした女性―水口良江がこの喫茶店を最初に訪れたのは、今から三ヶ月程前の成人の日の翌日の月曜日。ここから山側へ十五分ほど緩やかな坂道を上った所にある高齢者介護施設〈喜寿の里〉へ母親を入所させたその帰りであった。

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