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―凝縮された時間と空間が解凍された。  川村テル子の目の前に、スプーンをくわえた栗原美津江の顔が現れた。 「あら、お嬢さん。私、どうしたのかしら。でも、今の私、とっても清々しくて、幸せな気分だわ。こんなのって、そうそう、熱海温泉の新婚旅行へ行った先の旅館で、初めて亡くなった主人と結ばれた日の翌朝以来かしら。あら、本当に私、何を馬鹿なことを言っているのかしらね。急に気持ちが伸び伸びしてしまって。ご免なさいね、お嬢さん」 「いえ、いえ」美津江が首を左右に揺り動かして微笑むと、 「でも、お店に入ってこられた頃からすれば、何だかスッキリされたような感じに見えますよ」と言い添えた。 「そう。お嬢さんにも、そう見えるのね。さっき、変な夢を見たようになって、でも、もういいわ。それより、お嬢さんに謝らなければいけないのよ。ご免なさいね。私、嘘を言っていたの。主人を亡くしてから、独りぼっちで暮らしていて、子供もいないのに、息子や娘が孫を連れて毎週訪ねて来るなんて、そんなの嘘八百。それが幸せな自分だと感じて、そんな年寄りを演じていたの。でも、でも、今は独りぼっちも好いものだと思えるのよ。それでも、いつも親切にしてくれるお嬢さんに嘘をついたのはいけないことだわ。本当にご免なさいね」 「そんなの、いいです。いいですよ。気にしないでください、お客さん。あっ、そうだ。私、栗原美津江って言います。栗の原っぱに、美しい大津の津に江戸の江です。お嬢さんって呼ばれると何だか照れちゃうんで、よかったら、これからは下の名前で呼んでください」 「そう。じゃ、これからは美津江さんって、呼ばせていただくわ。あら、そうだ。私も自己紹介をしなくちゃね。私、川村テル子って言うの。三本川の村にテルはカタカナ、それと子供の子よ。じゃ、これからは、私のことをお客さんではなく、おばあちゃんって呼んでくださる」 「おばあちゃんだなんて。そうだ、テル子さんって呼ばせてください」 「テル子さん・・・・・・、テル子さんって呼ばれるのって、女学校以来だわ。でも、新鮮でいいものね。これからもよろしくお願いネ。美津江さん」 「はい。テル子さん」こうして二人は屈託のない笑顔を浮かべると、まだ湯気の立つ目の前のオムライスを美味しそうに頬張り始めた。 (あれ?)ほんの少し前に違和感を覚えた藤村隆司は、厨房の片隅で、お皿を拭いていたフキンを持つ手を休め、襟元に手を添えた。いつもはトレードマークのエンジ色の蝶ネクタイの色が、今日は漆黒のそれに取り代わっていた。この色合いの意味するところは、悼みに違いないが、藤村も一瞬のあいだ瞬きを止め、悼む人の過去の姿を心の片隅で追っていたようだった。  そして、厨房に一番近い席で、オムライスを口に運ぼうとした途端、急に異質な雰囲気を感じていた鳥飼景子の方は、口元のスプーンを再びお皿の上に戻すと、何かを気にするように、チャコールグレーのパンツの尻のポケットに手をやった。そこには、今朝、この店に入る直前に届けられた、まだ封の切られていない航空便の封筒が入っていた。そのポケットの中に忍ばせていた封筒を取り出そうと、その縁を指で触れた途端、差出人の過去の面影が景子の脳裏に流星のように飛来した。 (お父さん・・・・・・)景子の唇が微かに動いた。

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