キッチンシンクじゃ泳げない
14-♥♥♥♥♥♥♥♥♥

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「キーン」  この音色が、脳内を透過し終えたように感じた途端、小杉小夜子の目の前には琥珀色の液体ではなく、発泡する透明の液体に満たされたシャンパングラスがあった。 (あっ!亜希!)突然、小夜子の頭の中に亜希の姿が弾けた。 「帰らないと。私、帰らないと、娘の亜希が待っているんで、私、帰ります。すいません、常務。そして、みんなも、ご免なさい」小夜子は、バッグを鷲づかみにすると、転げるように店を飛び出して行った。  突然、パニックに襲われたような小夜子の様子に、影山常務を始め、この場に居並ぶ者たち全員が、狐にでも摘まれたような表情で、小夜子の揺れ動く後ろ姿を、呆然とした目つきで追っていた。  エレベーターを降り、往来に出ると、小夜子は一目散に駆けた。  石畳の緩やかな下りのスロープに小夜子のハイヒールの踵の音が、コツコツコツコツと忙しげに響いた。 (帰らないと、亜希の許へ・・・・・帰らないと、亜希の許へ)この思いだけが、小夜子の心の中で途絶えることなくリピートされる。  阪急東口の改札を通り抜け、もどかしげに身体をくねらせながら、人と人の間隔をすり抜けるようにしてエスカレーターを駆け上がり、プラットホームに立った時、ちょうど上りの急行列車の扉が閉まる寸前であった。 「ちょっと、待って!」小夜子は跳ねるようにして電車に乗ると、シューと空気の圧縮音を伴い、間一髪で美津江の背後の扉が閉められた。  金曜日の八時台の上り電車の混み具合は大体がこんなものなのだろうか。小夜子は吊革にぶら下がる乗客の間を縫うようにして、習慣的に女性専用車両の方へと移動して行った。 〈これより先は女性専用車両です〉と表示された車両の連結部分の二枚目のドアを開け、文字通り女性で占められた車両に入ると、ここも一般車両と同じように混んでいた。  もう少し空いている場所を見つけて、そこに移動しようと小夜子が思った時、突然、電車がガタンとレールを軋ませる音を伴って右側に大きく揺れた。  電車の振動に合わせるように、立っている乗客がその反動で同じように身体を一斉に右側へと傾けた。すると、人の団塊の間に隙が生じた。  何 気なしに、小夜子の視線がその隙間の空間を通り抜けた。その際、二つ向こうの扉の横に一人で佇む女の子の姿を捉えた。 「亜希・・・・・」喉を鳴らして生唾を飲み込むと、小夜子駆け寄って行った。 扉横の手すりに掴まりながら、亜希は電車の揺れに身を委せるように、ぼんやりと車外に広がる暗闇の世界を眺めている。 「亜希・・・・・」小夜子の瞳から沸々と熱いものが湧き上がり溢れだした。 「亜希」もう一度、吐息を漏らすように囁くと、両肩をすぼめるようにしながら、小夜子は一気に乗客と乗客の間に生まれた空間を滑るようにして進んだ。  もう後数歩踏み出せば、亜希の息づかいを感じられる背中に手が届くという所で小夜子は立ち止まると、何か繊細な壊れ物でも包み込もうとするかのように、両腕をゆっくりと持ち上げ、この現実の世界の存在に心から感謝の念を抱き・・・・・、  意を決するように、距離を縮めた。  小夜子の気配が伝わったからだろうか、扉のガラスに投影された、寂しげな亜希の表情が急に和らいだ、と、思った瞬間、 「亜希!」小夜子は背後から亜希を抱きすくめた。 「ママ!」そう叫ぶと、身体を反転させた亜希が、小夜子の腕の中に飛び込んだ。 「亜希!」 「ママ!」  小夜子は愛おしむように亜希の小さな身体を抱きしる。  溢れ出る涙が邪魔をして亜希の表情はハッキリと捉えられないが、亜希の身体の温もりを通して、亜希の安らかさや心地よさが、小夜子の腕から心の奥底に直に伝わってきた。 「もう、ママ、亜希のことを離さないから。ずっと、一緒にいるから。ずっと、一緒だから」 「ママ、亜希も・・・・・」亜希は自分の手の甲で、小夜子の涙を優しくぬぐった。すると、小夜子の目の前に、生き生きと輝く亜希の満ち足りた笑顔が現れたのだった。

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