作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

「お待たせいたしました」伸びやかな明るい声にハッとして水口良江が顔を上げると、そこにはマッチ棒のようにひょろりと細長い体つきの栗原美津江が微笑みを浮かべ立っていた。 「どうかなさいましたか?」床を掃除するあのモップのような髪の毛が、首を傾けた途端に前へ揺れた。 「いいえ、別に・・・・・・」良江はテーブル上のステンレス製の灰皿に、咥えていた煙草の火を押しつけて消すと、灰皿をテーブルの端へと寄せた。 「アイスコーヒーは、今お持ちいたしましょうか?それとも、食後がいいですか?」美津江は運んできた野菜サラダの器と、ゆらゆら湯気が立っているカルボナーラが盛られた平皿をテーブルに並べながら訊ねた。 「いつものように、後からでいいわ」 「かしこまりました」丁重に返答すると、美津江は大股で厨房の方へと戻っていった。  各種の調味料と一緒にテーブルの片隅に置かれた四角い籐の箱から紙ナプキンでくるまれたフォークとスプーンを取り上げた時、ま たしても先週の光景が良江の脳裏に戻ってきた。 「何事においても否定することはよくないことなのです」介護士の声が良江の頭の中で響いた。 (否定することは、よくないこと・・・・・・よくないこと・・・・・・否定することは、よくないこと・・・・・・か。でも・・・・・・、そうよ、私、ことある毎に否定ばっかりされ続けていたじゃない、あの人に)  カルボナーラの表面をボンヤリと見つめていると、パスタに散りばめられた黒胡椒の粒が段々と大きくぼやけ始めた。すると、既に二十年ほど前になるが、自分と対峙している母親の顔のシミとそれとが重なった。 「お前、本気で言っているのかい?」 「本気に決まっているじゃない。私、沼田さんと結婚するつもりよ」 「ダメだね。結婚したってうまくいかないね」 「どうして」 「あの男、高卒だろう。短大出のお前とじゃ、ね。それに、勤め先だって、一流企業のようにパッとしたところじゃないし、苦労するだけだ」 「そんなこと関係ないでしょ。沼田さん、私のことを大切に思ってくれているし、私だって沼田さんのことが好きなのよ。だから、いいじゃない」 「良江、お前、何にも分かっちゃいないんだね。恋愛と結婚は違うんだよ。結婚した途端に甘い夢が弾け飛んで、現実に戻って、後悔するんだ」 「母さんは、私がそうなるって言うの」 「そうさ。そうなるに決まっているね」 「あのね、そんなの結婚してみなきゃ誰も分からないじゃないの。それに、私、もう来年で三十なのよ。これを逃したら、もう一生独身かも知れないじゃない」 「なに弱気なこと言っているんだい。大丈夫さ。直きに、お前に相応しいハンサムでお金持ちの素敵な彼氏が現れて、何不自由なく一生幸せに暮らせるさ。だから、あの沼田という男との結婚だけはよした方がいい。焦って貧乏くじを引いてもつまらないよ」 「・・・・・・母さん、母さんは、私がこうしようと決めると、何時もそのことに反対するのよね」 「そんなことないさ」 「いえ、そうなのよ。五年前に私が家を出て、アパートで一人暮らしを始めようとした時も、それから、就職の時も、私が決めていた就職先に反対して、結局、母さんの知り合いの工務店で事務の仕事をすることになったし」 「よかったじゃないか」 「それから、そうだ。私が看護師になりたくて、高校を卒業して専門学校に通いたいと言った時も、あんな仕事は大変でお前には無理だって、反対して・・・・・・結局、短大へ行く羽目になったし・・・・・・」 「みんなお前の為になっただろう」 「そうかしらね。結局、母さんは、私のしたいことに、ただ反対したかっただけで、自分の思いだけを優先させたかったように思うけど。ああ、それから、あの時も、私が小学校の二年生くらいの頃・・・・・・」 「また、えらく昔の話を持ち出すんだね」 「公民館の入り口横にダンボールに入れられて捨てられていた子猫を拾ってきて、飼いたいって言った時も、反対したじゃない。私、あの黒い斑の入った子猫、本当に気に入って飼いたかったのに」 (ああ、汚れていたから、白いのが黄土色っぽくなって、その中にブチブチの黒い斑点のある、あの子猫・・・・・・元のところにダンボール箱ごと戻して、あれから、どうなったんだろう)良江が思い描いた子猫の黒い斑点がボンヤリと薄れていったと思ったら、一瞬にして、カルボナーラの黒胡椒のツブツブに変わっていた。 (否定することは、よくないこと、よくないこと・・・・・・そうよね。全くそのとおりだわ)良江は心の中で呪文でも唱えるように呟くと、フォークとスプーンをくるんだ紙ナプキンを外して、目の前のカルボナーラを勢いよく食べ始めた。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません