メルリの示した揺籠遺跡の裏の研究室は霧に守られていた。 「もう少しだから……」 書籍だらけの部屋のベッドにハウラをそっとして下ろして、コートを脱がせた。 殺菌効果のあるラベンダーの精油をほんの少しだけ混ぜたお湯で、植物型の粘液を拭き取っていく。同時に小さな切り傷にも軟膏を塗っておいた。 ハウラはまだ目覚めない。 ニクスは立ち上がり、本棚を漁る。 「術式負荷における身体負荷の対処法と処置……あ、これだ」 ―― 心晶術式は生まれつき生物に刻まれた術式であり、これにより属性が決定する。 術式の行使には大気に満ちる自然素と自らの晶素を用い、鍵言葉によって発動させることができる。鍵言葉で発動するものは一般的には魔法と呼ばれることが多い。一部、無詠唱で発動できる場合もある。 属性の種類は以下が一般的。 すなわち火【ファリカ】、水【セレナイカ】、風【セリーシェ】、地【ユウリル】の四大自然素である。研究と理論上は他の属性も存在するとされ、煌めきの騎士のニクスのように氷を扱う者もいたが、彼以外が未確認なため、属性として定義はされていない 以下、もしも必要に迫られて強力な心晶術式を使い、昏睡状態に陥った場合の対処法。 原因となるのは、晶素の枯渇である。 問題としては大気中に満ちる自然素と違い、晶素を満たすには他者の晶素がいる。他者の晶素を取り入れる方法としては、体液の傾向が摂取が有効とされるが、 恋人同士の場合は、体を繋げてついでに護りの証を刻んでおくのもおすすめである。 護りの証は、すべての害から一度だけ守るという絶対防御の心晶術式であるが その分発動条件も厳しい。だが、試してみる価値はあるだろう。 「体液の……摂取」 無防備に眠るハウラを見つめ、首を振ってニクスは指を噛み切った。ぽたぽたと赤い雫を数滴口に落とし、そのまま口移しでハウラに飲み込ませる。 「……俺の血なんていくらでもあげるからさ。目、覚ましてよ」 ぴくりと指が動き、願いが通じたようにハウラは目を開いた。 「……口の中……血の味……する……」 「ごめん。心晶術式ぶっ放して倒れたアンタを助けるには他人の体液しかないっぽかったから、俺の血を飲ませた」 「え?あ、指……怪我が……」 乱暴に布を巻き付けて止血したニクスは真っ直ぐにハウラを見つめた。 「……ハウラはまだ、【王】になるつもり?」 ハウラは静かに首を横に振った。 「いいえ。あんな負はオレじゃ鎮められない。それに、ヴァイスエーデルさんほどの覚悟も持てない。でも、伝承種残滓に世界が蹂躙されるのも嫌だから」 ――瞳に、強い決意が宿る。 「戦う力もないオレだけど、主従騎士に力を分けることはできる。だから、【主従騎士】を集めて――亀裂を、「世界の疵」を閉ざします」 「驚いた。そうだよ。それが俺の見つけた方法。【王】が自らを生贄に捧げることなく、【王】と【主従騎士】を集めて揺籠遺跡のどこかにある亀裂「世界の疵」を閉ざす。でも、いいの?」 ニクスはからかうようにハウラを見る。 「ハウラの力はキスで発動するみたいだから、きっと綺麗なままではいられなくなるよ。キス以上は俺以外にはさせないけど」 「……それ、なんだけどさ」 ハウラは真っ直ぐにニクスを見つめ、耳まで赤くして告げる。 「……ニクスは言ってたよね。オレはからっぽだって。でも自分で満たすことも俺が満たしてやることもできるって。だったら……教えてよ、ニクス」 「……いいの?もう、戻れなくなるよ?俺は独占欲も強いから……絶対に手放さないよ?」 「いいよ。オレは、【愛】はひとつで十分だから。ニクスの愛だけで……いい」 優しく口づけが落とされて、ハウラは押し倒され、寝台に沈む。 「わかった。一緒に堕ちよう……ハウラ」 ――そして【王】は愛を知り、【生贄】の資格を失った。 温かな熱の中で、冷え切った首輪が砕けて、散った。 ―― 「……あ、首輪、外れたんだ……」 翌朝、首に手をやったハウラは首輪がないことに気づいた。 昨晩のことはあまり良く覚えていない。 「目、覚めた?動けそう?」 「あ、うん。おはようニクス。ちょっとお腹減ってるけど」 「そう言うと思って」 コト、とテーブルに置かれたのは焼きたてのパンケーキだ。上に乗っているのはブラウベリィとロドベリィと呼ばれる森で採れるベリィ類。さらに白くふわふわのクリームが溢れんばかりにかかっている。 「これ、えっと……ケーキってもの?」 「そう。この世界ではね、お祝いにケーキを食べるんだ。味は保証するよ」 「いただきます」 ハウラはナイフとフォークでパンケーキを一口大に切り、クリームとベリィを乗せて口に運ぶ。甘さ控えめのクリームに、色鮮やかなベリィの甘酸っぱさが噛み合って、気がつくとニ枚ほど完食してしまっていた。ごちそうさま、とナイフとフォークを置いてから尋ねる。 「お祝い……?お祝いってなんの?」 「……俺とハウラが結ばれて、俺の恋が叶ったお祝いと。ハウラが【王】じゃなくて、ハウラになったことのお祝い。実質、誕生日みたいなもんだと思って」 「うん。オレは……【偽王】でも【王】でもなく、ハウラとしてこの世界を救うって決めた。誰も犠牲にしないし、オレも運命の犠牲にはならない。ニクスがいるなら、きっと」 「俺も誓う。アンタを守る。この剣はハウラだけに捧げる。だってハウラは、」 ニクスに促され部屋の鏡を見ると、ハウラの髪のひとふさが、黒く染まっていた。 「もう俺の色に染め上げてしまった。俺のモノだから」 「うん。そう言われても全然嫌じゃないや」 ハウラはそう言うと、満面の笑みを浮かべた。 部屋の片付けを済ませ、必要な本をカバンに詰め、最後にハウラはニクスから贈られたコートとシャツを身につける。色は彼と同じ黒と青。 「よく似合ってる」 「いずれ世界を救ったら、【黒王】とか言われたりしてね」 くすくすと笑いながら、ハウラはニクスの手を引いた。 これからふたりを待ち受ける運命はきっと重くて厳しいだろうけれど、それでも。 「行こう、ニクス」 「アンタとなら何処へでも」
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