届け、神様からの電話
看病
「ちょっと、聞いてる?」
咎めるような声にハッとして顔を優香に向ける。
「ん?ああ、えっと、何だったっけ?」
優香は俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫?ぼーっとして。眠れてないの?」
「ああ。大丈夫」
優香は俺を監視するかのようにあれから毎日やってくる。
必ず何かしらのガンに効くというものを持ってきて。「今日のは何?」
優香に渡されたコップには、おぞましいという形容が最も似合う、緑と紫の中間のような不気味な色の液体が入っていた。
「色んなベリーにキャベツを混ぜたジュースよ」
優香は当たり前のように言う。
「ふーん」
俺も毎日のことだから驚かなくなってきた。
効果は全く期待していないが、優香が満足しているのなら、それで良いと思っていた。
どんな不味いものでも、抗がん剤の苦しみよりはましだった。
電話は掛けていない。
優香がいる手前ではヘッドセットを着けることもできないし、優香が悲しむこともしたくなかった。
それに、掛けたくても、電話を掛けるために使っていたノートパソコンに優香がパスワードを設定してしまい解読できないのだ。
おかげで体調は小康状態。
強めの痛み止めを毎日服用しているから、痛みを感じないだけかもしれないが。
俺はジュースを飲みながら、「なあ」と声を掛けた。
「お味はどう?」
「ん?ああ。飲めなくはない」
これも痛み止めのせいなのか、味覚が衰えてしまっているのが好都合だった。
においさえきつくなければ、どんなジュースだって胃に流し込むことができる。「仕事行かなくていいのか?」
「いいの。辞めちゃったから」
俺は思わずジュースを吐き出しそうになる。
「え!何で?」
「だって、仕事に行ってたら、ここに来れないじゃん」
「だからって辞めなくても」
「気にしないで。丁度転職する予定だったのよ。私、こう見えても優秀なシステムエンジニアだから、引く手あまたなの。次の会社に入る前の長期休暇みたいなものよ。転職先ももう決まってるし、安心して」
確かに、優香は優秀なようだ。
辞める前の会社も、転職先も全国的に名の知れた有名企業だ。
ガシャン
大きな土器が落下して割れたような鈍い音が、どこからともなく聞こえた。
「今の音、何だろ?」
優香は首を傾げた。
そしてドアのところまで歩いていき廊下に顔を出す。
俺は直感的にそれが何の音なのか分かっていた。
ぶるぶると全身に震えが起きる。
呼吸がままならない。
額から汗が滲み出る。
動悸が激しくなる。
両手に抱え込んだ枕に顔を埋めベッドに小さく丸まる。
窓の外が慌ただしくなる。
廊下をバタバタと人が駆けていく。
優香が戻ってくる足音がする。
「ねぇ。どうしたの?キャッ」
俺は優香の腰にすがりついた。
傍にいてほしい。
優香の体温を肌で感じていたい。
「怖いんだ。怖い。怖いよ」
「大丈夫?何が怖いの?」
優香が優しく俺の頭を撫でてくれる。
「死ぬのが、だよ。俺はもうすぐ死ぬ。十日後かもしれない。五日後かもしれない。もしかしたら今、発作が起きて一時間後には死んでいるかもしれない」
「何言ってるの。そんな急に……」
「いや。あり得ることだ。末期がんはそういうものなんだ。そして、その時が来るのをただ黙って待っているのは、とても辛い。夜、暗い病室に一人で横になっていると、辛くていっそ一思いに死にたくなる」
俺は目に涙が滲むのを優香の腰のあたりに押し付けて拭う。「さっきの音は誰かが飛び降りたんだ。間近に迫った死に追いつめられて、自分から死に擦り寄った。その気持ちは俺には痛いほど分かる。末期がんの患者は死が訪れるのを今か今かと怯えて過ごす時間に狂いそうになるんだ」
こんなに追い詰められるようになったのは神様の電話をやめてからだ。
神様の電話を掛けていたときは、誰かの命を救うことに必死になっていた。
いつ死んでもいいように、力のある限り電話をかけまくり、そして疲労困憊で眠った。
死に怯えている時間なんてなかった。
「私に何かできること、ある?」
「優香」
俺は優香を見上げた。女神にすがるように見つめた。「許してほしい。勝手ばかりで申し訳ないけど、俺に残りの時間を精一杯生きさせてほしい」
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