透明な罪のゆくえ
29.父親の記憶

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 翌朝、奏哉は昨日の母親との一件をずっと考えていた。  昨夜はほとんど眠れなかった。いつも通りの時間にベッドへ入ったが、それから空が明るくなったのを覚えている。眠りについたのは朝方だろう。  学校へ行ったが、ほとんど上の空ですごしていた。  声を掛けられたら返事はするが、何を話していても、何をしていてもずっと思考は両親のことばかりだ。  昨日母親のスマホから知った父親の番号には、まだ連絡していなかった。  なんと言っていいかわからなかったし、なにより奏哉は混乱していた。  両親と過ごした幼少期、離婚を経て母親と暮らし始めて10年ほど経った今、改めて考えると奏哉の今までの行動は、両親の関係性が大きかった。  少なからず、子どもの頃は特にみんなそうなのかもしれない。  ただ、母親が離婚して、弟がいて、父親は「不倫して養育費を払わない」「離婚以来会いに来たことがない」。この状態の奏哉には、「みんながそう」と思う以上に母親の存在は大きかった。感謝し、大切にする存在であった。だからこそ、「彼女の母親をいじめていた」と言う話を、どうしても受け入れられなかったのだ。  もし、父親は養育費を払っていて、奏哉や遥斗のことを気にかけていたとしたら、と奏哉は考える。  会いに来ないのはなぜだろう。答えは母親が止めているからだろうとしか今の奏哉には思えなかった。  今まで一度も疑問に思ったことはなかった。父親が、奏哉に会いに来る気がないのだと思っていた。  それは不倫して離婚になった負い目か、もしかしたら養育費が払えない状況では会えないということだったのかわからないけれど、勝手にそのいずれかだと思い込んでいたのだ。  無意識に、母親と言う存在を当たり前に信用していた。  背中が冷たくなるような感覚が襲う。   自分が生きて来て、信じていた前提が崩れるような不安な気持ちになった。  ただ、それは前に襲ってきた絶望感とは違った。  奏哉はそれでも、母の愛情を疑うことはないし、遥斗との関係性はちゃんと培ってきたものだと確信できた。  もちろん陽菜と、陽菜のお父さんも奏哉を心配してくれていて、クラスには受け入れてくれる場所がある。  この時の奏哉に孤独感はなかった。  ぐっと拳を握りしめる。  今の自分に、母親の真実を受け入れられるのか……  そんなことを考えていたらいつの間にか4時間目になっていた。授業は体育だった。3時間目までなんの授業を受けていたのかあまり記憶に残っていない。  みんなと共に流されるようにジャージに着替える。今日は外を走るらしい。  毎年、夏になる前にマラソン大会がある。今の時期は体育で「マラソンの練習」という名目で長距離を走ることが多くなる。  今年初めてのマラソンの練習なので、今日はとりあえず2kmだ。  寝不足であることを思い出し多少の不安はあったが、休むほどでもなかったのでみんなと一緒にスタートした。走ってみると思った以上に体が重い。徐々にペースが落ちてくる。いつもより明らかに体調が良くなかった。今日はとりあえず走り切ることを目標にしよう、と無理をしないようにペースを落としていたつもりだった。  あと半分ほどだと思った時に、急に目の前が真っ暗になった。  自分の息切れと、周りの「大丈夫か!」という心配の声が遠くに聞こえたが、それに何と答えたのか、そもそもなにかを答えられたのかも覚えていない。記憶が途切れた。  * 「ごめんな、奏哉」  頭に手を置き、悲しそうな顔で奏哉の顔を覗き込む。これは最後に会った父親の表情だ。  奏哉はこのとき、これが最後だなんて知らなかった。  のちに「お父さんに会いたい」「いつ帰ってくるの」と言って母親を困らせた。  ――奏哉は父のことが好きだった。  記憶にある映像。  記憶にある声。 「もし、この先なにかあったら、いつでも会いに来いよ」  *  はっと目が覚める。白い天井が目に入る。  父親の夢を見ていた、それは理解していた。  ただ、最後の言葉は記憶になかった。  夢か、願望か、記憶か……  次に、ここがどこかと言うことを意識した。  見覚えのあるような、ないようなベッド。  仕切りのあるカーテンは病院を彷彿とさせた。だけど病院じゃない。  少し体を起こし布団を持ちあげてみる。着ているのはジャージだった。  そうだ、体育で走っていた…… 「奏哉! 大丈夫?」  夢と記憶が混乱してる中、聞き覚えのある声が飛んできた。  視線を上げると、カーテンから陽菜が顔をのぞかせていた。  その瞬間、ああここは保健室か、と理解する。 「覚えてる? 走ってて倒れたんだよ。頭痛くない? まだ寝てた方がよくない?」  心配そうな陽菜の声。 「陽菜、あのさ……」  何を言おうとしたのか、奏哉自身もよくわかっていなかった。  なに? と顔を寄せる陽菜。 「陽菜のお父さんに、会いたい」  ぽかんとする陽菜の表情。  頭が混乱していて、その時にそぐわない言葉を発していると気づいたのは、保健室の先生と話をして「寝不足が原因の貧血だ、帰ってゆっくり寝なさい」と言われて帰されたあとだった。

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