「私にとって俊貴は、弱虫で、強情張りで、そんなところが憎めなくて、可愛い弟分で……恋愛対象外で、好きになるわけがない相手だった。私、最低だよね。俊貴にひどいこといっぱい言った。なんで平気な顔で言えたんだろ。弟分には何を言ってもいいって思ってたのかな」 波止場に黙って座り続けて、どれほどの時間が経っただろう。永劫のような時が流れて、波音に混じって聞こえた声は、少し掠れて湿っていた。 日が傾き始めた海辺の町の最果てで、灯莉は空を仰いでいた。僕は対照的に俯いて、消波ブロックに打ち寄せては砕ける波を眺めていた。そうして訥々と語られる贖罪の言葉を、まるで罰のように受け続けた。 「俊貴と話をしたかったんだ。もう私にはそんな資格なんてなくても。俊貴はあの日、言ったでしょ。私は俊貴と仲良くしてた過去自体を、もう邪魔だって思ってるって。そんなの違うって言いたかった」 「じゃあ、なんで今まで言わなかった?」 最後まで黙り通していたかったのに、理性が言うことを聞かなかった。僕は醜い言葉を血反吐のように、海面へ向けて叩きつけた。 「言う資格がなかった? 嘘だ。時間ならあったのに、灯莉は言わなかった」 「そうだね。言わなかった」 灯莉は、反論しなかった。凪のように静かな諦めを顔に浮かべて、薄い笑みさえ僕に見せている。たったそれだけのことが、僕の胸を大きく抉った。 「俊貴。私、先輩と別れたんだよ。知ってた? 俊貴と二回目に海に落ちてから、すぐに」 知っていた。小さな町のことなのだ。何でもすぐに噂になる。だが、別れた程度のことが一体何だというのだろう。中学時代から灯莉に勉強を教えていたという先輩が、今どこにいるのかだって有名だ。僕は中学一年生の時の仕返しのように、嘘みたいに優しい横顔の幼馴染を、言葉のナイフで切りつけた。 「それでも灯莉は、東京に行くくせに」 先輩がいる、東京に。 「うん、行くよ。それしか、私には道がないから」 すとんと俯いて笑う灯莉の顔に、お転婆だった頃の名残はない。すっかり変わってしまった十八歳の幼馴染が、すっかり変わってしまった僕の隣に座っている。僕らはどうして、こんなに変わってしまったのだろう? 「灯莉が東京に行く理由って、何?」 カモメが鳴いて、翼の影が僕らの佇む灯台前から、青い海に向かって飛び去っていく。灯莉はさっきはすんなり答えたくせに、今度は返事をしなかった。僕は弱い者苛めのような己の矮小さを知りながら、俯く灯莉を傷つけるのをやめられなかった。 「先輩を追い駆けたいから? 別れても、まだ先輩が好きだから?」 「そうだよ。好きだから」 「嘘だ。さっきと言ってることが違う。それしか道がないからって言った」 今の灯莉は、逃げているだけなのだ。もう好きでも何でもない先輩をダシにして、恋愛対象外の弟分で、そのくせ自分が手酷く傷つけた後ろめたさで合わせる顔のない僕から、逃げ続けているだけなのだ。はっきりとそれが判るのに、さらなる言葉で傷つけようとした僕の手から、見えないナイフは滑り落ちた。不意に発せられた灯莉の声が、まるで別れのあの日のように、僕の唇を塞いだからだ。 「ねえ、俊貴。私のこと、許してくれる?」 落ち着いたトーンの声は、役目を終えた灯台を二人で見上げた黄昏時に、頬を掠めた夜気のようで、何だか甘くて寂しかった。日差しの煌めきを映し取った海の向こう、遠い彼方を見渡してから、僕を振り返って微笑む顔は、ほんの一時間前に僕の家で見せた笑顔と、寸分違わない穏やかさだ。ああ、まだ距離は開くのだ。新たに生まれた諦観は、あの日飲み込んだ海水のように、僕の喉で苦しく閊えた。 「……許すもんか」 十四歳の初夏、二度目に海に落ちたあの日、灯莉に助けられた僕は、当たり前に嬉しかった。だが、灯莉は僕に大嫌いだと言った。それが答えだった。あの時僕は、僕自身にとって一番大切な思い出まで否定された気持ちになって、もうこの初恋は諦めないといけないのだと理解した。その為に、薄情者の幼馴染を、とことん憎んでやろうと決めたのだ。理解に心が追いつかなくても、感情なんて時間が経てば、いずれ朽ちて死ぬはずだ。僕はその時が来るのを、息を殺して待っていたのに。それなのに――二年ぶりに幼馴染が、大学の合格通知書を持って僕の前に現れた時から、気づいていた。 もし灯莉が今からでも、僕に告げた大嫌いを、本当は違う言葉だったと教えてくれたなら。今度こそそんな奇跡が起こったなら、僕は灯莉を許してしまう。灯莉が何でもかんでも先輩の言いなりになったみたいに、僕だって抱え続けた憎しみを、簡単に海に捨ててしまうのだ。――そんな自分に、反吐が出る。 僕は、僕なりに今まで必死に、僕ら二人を遠ざける時間の荒波に抗った。だが廃れてしまった灯台と同じように、僕の初恋も変わってしまった。灯莉が今さら昔の真似事みたいにサンドイッチを作ってきても、大事に残し続けて腐り果てた僕の恋を、元に戻せるわけがない。こんな恋を今さらどう育てても、何にも生まれやしないのだ。 灯莉は、泣き出しそうな目で僕を見ていた。僕が初めて海に落ちた時と同じ目だ。僕は白波のように泡立った感情を持て余して、何も言えない。だけど目だけは、意地でも逸らしたくなかった。サンドイッチを盗んで家を飛び出したあの日、灯莉と瞳を通わせた時のように。 長い沈黙の果てに、灯莉は穏やかに微笑んだ。 「……そうだよね。こんな酷いお姉さん、俊貴が許すわけない」 奇跡は、起こらなかった。灯莉は青い水平線を眺めてから僕を振り返り、もう一度微笑ってから、僕らの間に置いたバスケットを、僕の方へ少し押した。 「あげる。俊貴に全部」 「それは……」 「いらないなんて言わないで。せっかく早起きして作ったんだから。お願い」 悲愴な響きの哀願は、この灯台に来るのを拒否した僕を見ているかのようで、そもそも自分が何を言いかけたのか、僕は海に言葉を攫われて忘れてしまった。 黙っている間にも、灯莉は立ち上がっていた。ワンピースの裾は風を受けて帆のように広がり、春色をしたカーディガンと長い髪が、移ろいゆく季節のように僕からそっと離れていく。バスケットを手放した手のひらには、大学の合格通知書が入った青い封筒だけが残っていた。遊び場で一人ぼっちになった子供のような寂しさが僕の胸に迫ったけれど、灯莉の笑顔は明るいものへ戻っていたから、上げかけた手は下ろすしかなかった。 「先に帰る。引っ越しの準備もあるし」 「……分かった」 大嫌いと言われたあの日のように、そう答えて受け止めるしか僕には出来ない。「うん」と答えた灯莉は胸が詰まったような笑顔で僕を見つめて、青い封筒を皺になるほどぎゅっと握りしめていたから、三月の海に落ちた五歳の頃のように僕の身体からは力が抜けていき、十六歳の僕はようやく、波に抗うのを、諦めた。 これで、本当にさよならだ。息を引き取る間際の呼吸を海風に乗せるように、僕もこの時間を終わらせる呪文を、二年ぶりに唱えた。 「それじゃあ」 「うん……」 灯莉はミルクティー色の柔らかそうな髪をかき上げると、僕が今までに見た中で一番綺麗に悲しく笑って、別れの台詞を告げた。 「じゃあね、由良くん。ちゃんと、幸せな恋をするんだよ」 背中を向けた灯莉が、僕から離れて歩き始める。僕の幼馴染は本当に、最後までお姉さんぶっていて、身勝手に僕を傷つける。遠ざかっていくワンピースの白い背中が、カーディガンの春色が、まるで遠い海の彼方に見える灯台の光のようだった。 一人よりも、二人の方がずっと楽しいと灯莉は言った。けれど僕らはこれから、一人と一人で生きていく。灯台の傍に残された僕の髪を、春風がくしゃくしゃに搔き乱す。僕は、手元に残されたバスケットを見下ろした。 彩り豊かなサンドイッチは、灯莉がバスケットを開いた時からほとんど変わらないままそこにあった。灯莉は一つを選んで食べて見せたが、僕はついに手を付けなかった。 サンドイッチの種類は、本当に呆れるほど幅広く、ぱっと見た限りでは一つとして同じ具材のものはない。しかし、これだけ選択肢が僕らの進路のように豊富でも、僕と灯莉が選ぶものは、昔から変わらないのかもしれない。 僕が戯れに刻み玉ねぎと黒オリーブが入った卵のサンドイッチを手に取った時、上着のポケットで携帯が震えた。僕は片手にサンドイッチを持ったまま、メッセージアプリを起動する。 メッセージの差出人は、歩美だった。 ――『先輩と、お別れできた?』 眉を寄せた僕は、顔を上げた。 灯莉はまだ、波止場を歩いている途中だ。少し考えてから、返信を打つ。 ――『最近、灯莉の家に行ったって聞いた。灯莉に何を言った?』 口を噤むのに似た、間が空いた。やがて海に投げ入れた錨のように、重く赤錆びた反撃の台詞は、声を伴わないにもかかわらず、意識にずしりと轟いた。 ――『俊貴を縛らないでって言ったの。あの女に』 すうと腹の辺りが冷たくなったが、覚悟していたほど驚かなかった。この町で青春を過ごした僕は、人が変わるということを知っている。灯莉は変わり、僕も変わった。地味で平凡なもう一人の幼馴染である歩美もまた変わったところで、何ら不思議ではないのだ。 だけど僕は、我ながらそれこそ不思議で仕方なかったけれど、今の歩美の言い方を、どうしても看過できなかった。電話へ切り替えようとすると、『だって』で始まる新しいメッセージが泡のように画面にぽこりと浮かび上がり、僕の目を引きつけた。 ――『俊貴は灯莉ちゃんに恋し続けて、幸せだったことなんてあった? ねえ、でも、私だって分かってるよ。俊貴に振られてから考えてた。俊貴の目の前から灯莉ちゃんがいなくなったって、俊貴が私を見てくれるわけじゃない。俊貴だって、いずれ私の隣からいなくなるんだ。でも、その時はもう灯莉ちゃんを好きだったことなんか忘れて、いい加減に他の誰かのことを普通に好きになってよ。その相手は、私でなくてもいいから。春原灯莉でさえなかったら』 頭を強く、力任せに殴られた気分になった。 ――春原灯莉でさえ、なかったら。 青天の霹靂とは、こういうことを言うのだろうか。春原灯莉でさえなかったら。歩美の言葉が、潮騒のようにリフレインする。灯莉のサンドイッチを、僕は見つめる。あの日捨てられなかったボトルメールが形を変えて、今もこの手の中にある。だが、僕には捨てられない。初恋を言い当てられたあの日のように、惨い指摘が僕に自覚させていた。 捨てようと思っていて、もう捨てたとさえ思っていて、なのにまだ、ここにある。やはり呪いのようだった。そして、携帯とサンドイッチを見下ろしていた僕は、ようやくそれに気づいて、息を呑んだ。 僕が、卵のサンドイッチを抜き取った下に――見覚えのあるサンドイッチが隠れている。 白い食パンに挟まれたのは、サーモンとクリームチーズ。 他のサンドイッチは、どれも一つずつしか入っていないのに。灯莉の声が、蘇る。 ――じゃあ、私が先に選んじゃう。あとで文句言ったって、替えてあげないんだから。 そう言って一口齧って見せた時の、得意げな笑顔。そうして鈍感なふりをして、白々しく告げたあの台詞。――俊貴の好きなものが分からないから、たくさん作ってみたの。これだけあったら、一つくらい好きなのあるでしょ? ――あんな風に、言っていたのに。 心臓が、忙しく鼓動を打ち始める。息を吸い込んだら、潮風の爽やかさがリアルに感じられた。僕は今、呼吸をしている。顔を上げると、灯莉の姿は波止場から離れつつあった。波打ち際をゆっくりと、砂浜に足跡を残しながら歩いていく。僕は、メッセージの羅列を液晶に垂れ流し続ける携帯を、ポケットに放り込んで黙らせた。 ボトルメールを捨てるどころか、よもや拾い上げるという愚行を犯すなどとは思いもしない。もう一生捨てられないのかもしれない。 歩美の言うような、普通の恋とは何だろう? そんな恋をしている自分を想像しても、今の僕よりも遙かに不自由で下手くそな呼吸を繰り返す自分しか、脳裏に思い描けない。 どちらに転んでも苦しいなら、せめて自分が納得のいく苦しみ方をしたかった。 立ち上がった僕は、すうと息を吸い込んで、嗄れかけた大声を風に乗せた。 「灯莉!」 フラットシューズを履いた足が、ぴたりと止まる。髪を潮風に靡かせて振り向く灯莉の顔は、二歳年上で大人ぶった幼馴染のものではなくて、この町に来たばかりの僕のような心許なさでいっぱいだった。足元で寄せては返す小波が日差しを照り返し、あの日の夜空のようにきらきらと光った。 この町の灯台が、僕らのことを照らさなくても、汀の灯りが、僕ら二人を照らしている。僕は、大声で宣言した。 「僕も、東京に行く。二年後に、東京に行く!」 門出の光に包まれた灯莉は、力が抜けたような顔で僕を見ていた。やがてシャボン玉越しに見た世界のように虹色に輝く色彩が、あどけない子供のような表情へ清らかに射して、泣き笑いに似た貌で弾けた。息苦しそうに唇が動き、全てを夢に還すように、髪とワンピースが翻る。汀の灯りが眩しくて、幼馴染の顔が見えなくなる。駆け出した灯莉は、中学校の屋上前で僕を拒絶した日と同じように、一人で先に行ってしまった。 声は届かなかったが、僕にはちゃんと伝わった。――ばか。生意気。灯莉らしい返事だった。 頑なな意思の灯った瞳が、僕を視界から締め出す刹那。その頬にも何かが光って見えたのは、波間の光の反射なのか、もう役目を終えた灯台が、一瞬だけ僕らのために輝きを投げかけてくれたのか。それとも、それはもっとありふれた出来事で、だけど僕にとってはとびきりの奇跡が起こったのか。 答えを二年後に確かめようと決めた僕は、灯莉のサンドイッチを一口齧った。 疎ましいほど長い付き合いになりそうな初恋の味は、黒胡椒がぴりりと利いていて塩辛く、仄かに海の匂いがした。 〈了〉
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