『二〇二〇年七月二四日(曇)。先日知ったのだが、ちょうど今日、本来なら東京五輪が行われる日、所謂開催日であったらしい。もちろん開催できるわけがないけど。上空を戦闘機が飛んで、スモークで五つの輪を描くこともなければ、多くの外国人が日本に流入することもな――』 「ああ、やってらんねえよ」 玲は日記用に拝借してきたノートを、インクが切れ掛かり擦れるようになったボールペンと共に投げ出した。先月程から嫌々始めた日記をつけるという日課だが、それはとうとう東京五輪開催予定日という名誉ある日にその足を止めた。 「あーあ。また投げ出すんだ。いっつもそれだよ。自分で始めた日課の癖に。イヒヒヒヒ」 別に過去に書いた自分の日記を読み返したいから始めたわけではない。なんと無しに落ち着いた今、世界の現状を鑑みて「記録」を残さなければならないかもしれないという使命感に襲われたからであった。 「どれもこれも食事記録。それもほとんどかわり映えしないし。インスタ映えなんだっけそれ? イヒヒヒヒ」 しかし今まで書いてきた日記帳は、最初の一冊のそれまた最初の方の数ページを除いて、食料の記録表になっている。 「社会が戻ったら、貰った分の金を返すためって言ってたけどどうなの? 社会は戻りそうなの? イヒヒヒヒ」 今日は真夏日だった。朝のニュース番組も天気予報もないが、体感で真夏日だと玲は思う。籠った室内に薄っすらと霧がかかったように見えるほど、湿度は高く、外に出るつもりがなかった玲は仕方なしに住処の扉を開け、外に出る。 閂のかかった鋼鉄の扉を開け、鍵のかかった木製の扉を開き、罠として貼ってあるワイヤーを跨いで、尖らせた木や鉄パイプで組んだバリケードの間を抜けた。 煌々と照らす太陽はじんわりと肌を焼いているのを感じる。玲は手に持っていた上着を着て日差しから体を守り、使い古した鞄――バックパックと言われるタイプ――を背負う。 ビルの間から吹き抜ける風は清々しく、微かに植物の青臭さを孕んでいる。それもそうだろうほとんどの建物は倒壊し、ビルも傾き、その壁面には留まることを知らない植物たちが侵略しているのだから。 人の文明は滅んでいた。 実に簡単な話だった。今思えば、ゾンビパンデミックものなどを描いていた者たちは予言者なのではないかと思うほどに、突然日常を破壊された世界は、簡単な世界だった。 皆慌てふためいて、突然変異した人間に襲われ、自らもその突然変異体へと成り上がっていった。 悪の組織がばら撒いた新型ウイルスでも、人間に寄生するように変異した冬虫夏草でも、宇宙から飛来した謎の生物でも何でも良い。 感染した者の体液を体内に取り込んでしまうと自分も感染する。そのありふれた方程式の元、人類は新たな体へと昇華していき、旧世界の人類は数か月の間で今までの一割ほどにその数を減らした。 滅び切った世界を見ると、この現実世界で起きたパンデミックの原因は何かしらの植物が原因なのだろうと思う。 そこら中に生えている植物の元は、皮膚などが樹のように変化し、既に意識があるかどうかもわからない姿に成り下がった人間であった。今見てみれば樹なのか人間なのか判断がつかないほどに、彼らは植物だった。 例えるならば、お盆に祖父母の家へと帰り、夜寝るときに見た天井が人の顔に見える。そんな程度に、微かに樹にかつての人の面影を感じる。 人間が多くの植物を殺したからか故の結果なのかは、もう研究者と名乗ることができる人間がいないのでわからない。しかしゾンビパンデミックに包まれた人類の行く末は植物であった。 そんな中で生きる玲は残念ながら、初めて感染者が発見された街の警官や、パンデミック後に愛する子を殺された憎しみを抱える父親や、人類の希望となり得る感染に抗体のある英雄でもなかった。 ただ先ほども言ったように、玲は簡単に生き延びて見せた。 それは先人が漫画や、ゲームや、映画という形で生き延びる術を残していてくれたからであった。この世界の教本は、バイオハザードで、ラストオブアスで、アイアムアヒーローで、アイアムレジェンドで、ウォーキングデッドで――。 大きな音を鳴らさない。人を信用しない。容赦なく人を殺せるよう倫理観を捨てる。食糧より水。まず向かう先は銃砲店。銃の撃ち方。食料の確保の仕方。人の殺し方。いざというときは人すらも食べる勇気。 感染者が蔓延る世界で生き延びる術を知っていた玲は恐らく唯一この世界でそれらを全て体現して見せた人間だった。だからこそ今ここで生きている、パンデミックが終息した世界で。 パンデミックが始まってから約三年、三回も夏を迎えてしまえば旧世界で生産されていた食料は腐り果て、もう食べられる物は缶詰やカップ麺などの保存食ばかりであった。それらの保存食であってもカップ麺やレトルトカレーは既に賞味期限が過ぎ、翌日の腹痛を心配しながら食べるという毎日が続いていた。 たまに鳥や鹿などの野生動物を見ることがあるが、現状の装備ではそれらを狩ることは不可能であった。かつて使っていた散弾銃や猟銃、拳銃などは弾の枯渇でモデルガンと変わりがなかった。 パンデミックが起きた当初こそは、銃砲店に駆け込んだタイミングが早かったため、いくつかの武器と多くの弾を手にすることができたが、約二年もの間、戦い生きるには少なかった。 弾が枯渇し、住処に置いているものの銃の手入れなんて、もう数か月は行っていない。今使えば暴発して玲の手が吹き飛ぶことだろう。 しかし、もう敵も味方もいなくなった世界で敵を殺すための武器は必要ない。 強いて言うなら野生動物を狩るための道具が欲しいため、図書館に行き弓の使い方を学んでみたものの、本を読んだだけで獲物を狩れるほどの技術が手に入るわけでもなく、挫折した経験を持っていた玲はやはり銃を手放すことができなかった。 本来一生のうちに一度味わうか、味わないかの火事場を何度も潜り抜けてきた玲の射撃の腕は本人の意図しないところで着実に目紛しいほどの成長を遂げていた。 食料を求め歩き、そう丁度、額に溜まった汗がゆっくりと流れ、瞼に到達するくらいに、最近聞いていなかった文明の音を確かに玲の耳が捉えた。下腹部を揺らし、耳の中で反響するこの重苦しい音は、車だろう。 生存者かと思った玲は懐に納めておいた包丁を、鞄に差しておいた物干し竿――手ごろな長さに折ったもの――にテープで括りつけ簡易的な槍として、音のした方向へと姿勢を低く歩いていく。 生存者は味方ではなく基本的には敵である。敵でない場合は損得が一致した場合のみの協力者に過ぎない。 世界を制していたのは男であった。筋力や残忍さ、それらはやはり男が勝っており、グループや集落は男に支配されていることが多かった。 そんな世の中で玲は一人で生き、女は交渉材料に、男は解体し感染者を誘う道具に換えた。こんなことを思いつき、実行したのはパンデミックが始まって一週間もたたない頃だった。 ビルの一階部分に突っ込んでいるのはジープで、浮いた前輪がまだ虚しくくるくると回っている。玲はスキー用ゴーグルをつけ、バンダナで口を覆うようにする。顔を見られないようにするためということもあるのだが、感染者の感染原因をなるべく体に触れさせないようにするためであった。 「生存者かな? 次は裏切るの? 殺すの? イヒヒヒヒ」 「うるさい……だまってろよ……」 そして、未だ閉まっているドアを開け、中を確認する。そこにはまさに今植物へと変わっていく感染者がいた。 グだか、ガだか枯れた喉を鳴らすような声を発しているが既に皮膚や筋肉の硬化が始まっているため、身動きを取ることはできない。 「今の今まで生きていたのか……」 「こいつらは生きてないんだよ。死んでるんだよ。知らないのかよ。イヒヒヒヒ」 感染者の完全停止を確認した玲は車に乗っていた二人を下ろし、運転席に乗り込む。鍵を回してみるが、エンジンが動く素振りはない。 「ちっ。貴重な車をダメにしやがって」 仕方なく玲はこの車を解体することにした。 「故障じゃないでしょ? 直せないの? あ、マニュアルだから運転できないのか。ださいな。イヒヒヒヒ」 またその前に荷台を確認するとそこには宝の山が並んでいた。どこを探してもなかった弾丸がそのジープには積み込まれていたのだ。 「なんでこんなにあるんだ……。そういえば自衛隊が武器を回収していた時期があったか。人々を守るためになんて言って。それは上手くいかないで自衛隊も警察も壊滅。武器はまた散り散りに。その時のがまだあったということか」 「また独り言かよ。オレに話しかけてもいいんだぜ? イヒヒヒヒ」 玲は口にして推理した。孤独の弊害、そのうちの一つがこの独り言であった。人と話すことが無いという状況が生み出す言葉の欠如を、玲は独り言とイマジナリーフレンドで誤魔化していた。そのためこのように独り言が多く、旧世界で見れば変人と思われる素振りを行っている。 常に玲の周りで浮遊している黒毬藻みたいな形をした、悪魔のような妖精のようなものこそ、イマジナリーフレンドの一匹であった。玲の気分によって姿や口調が変わる彼らは、玲が狂っているから見えるのか、狂わないように姿を現しているのか、もうわからなくなっていた。 イヒヒヒヒと語尾に付け、皮肉を絶えず言い続けるのが特徴のイヒ郎は、玲がイラついている時に良く現れる奴だった。文句や皮肉を言わせることで自分の冷静さを保つためなのだろう。しかしその五月蠅さは異常と言えた。 「しかしラッキーだったな。これだけあれば当分武器には困らない」 「あーあ銃をちゃんと手入れしてればよかったのにな。イヒヒヒヒ」 「帰ったら銃の手入れをしないと」 玲はまず木箱に詰められた弾丸を鞄に入れ、それらを住処に運ぶ作業を始める。幸いなことにジープから住処までの距離はそこまででなく、貴重な弾丸のためであれば何往復も苦ではなかった。 そして全ての弾丸を住処へ運び終える程度で、本当に車が動かないことを確認した後に、住処から取り出したいくつかの工具で車の解体を始める。バッテリーやエンジンの細かな部品、タイヤのゴムやホイールのバランスウエイト、ホイール自体など使えそうなものから使えなさそうなものまで片っ端から回収していく。 その多くはバリケードなどの適当に廃材を固めたものに使われるのだが、バッテリーや金属部品はいつか何かの役に立つかもしれないと思い集めていた。 しかし加工するにも技術はなく、まさに宝の持ち腐れという状況であることも確かであった。 「鈴木英雄は車のパーツを改良して弾丸にしてたけど、お前にはその技術はないよな。イヒヒヒヒ」 「いいんだよ、弾が手に入ったんだから……」 多くの荷物を背負い、再度分割しながら住処へと持ち帰る。その作業が終わる頃には既に日は傾き始めており、前食の時間を逃した玲は悪態をつきながら食事の準備を始めた。 食料が少ないこの世の中で、エジソンのために一日三食も食べてやる必要はなかった。だから玲は一日の内の食事を二回にし、午前十一時程に食べる方を前食、午後十九時程に食べる方を後食とした。 今日の後食はカップ麺だった。昨日の食事もカップ麺だった。一昨日の食事もカップ麺だった。 世界にはカップ麺が溢れているのかと思われているほど玲の食事はカップ麺で染まっていた。それもお湯とカップ麺自体があれば出来てしまうので、手間がかからないのもそうだが、スーパーなどの食品店に顔を出してみても、生鮮食品などと比べ、見た目からカップ麺は食べられそうという印象が得られたためであった。 旧世界ではお湯のみで作られる麺類がラーメンを始め、そばやうどん、パスタに焼きそば、ラーメンご飯など味の種類も考慮すれば数えきれないほどの種類があったのが唯一の救いであった。恐らく一種類しかなかった場合孤独より先に、カップ麺によって狂気に陥っていただろう。 しかし粉末スープであれば良いのだが、液体スープが入っているタイプのカップ麺はスープがもうダメになってしまっているため、塩や砂糖などのダメにならない調味料を入れて味を誤魔化していた。 そのような理由から粉末スープタイプのカップ麺は少し格が上であり、今日のような多く物資が手に入った日などは特別に粉末スープのタイプのカップラーメンを選んだ。 ライターの点火機構を利用した火打石で、まずおがくずに火を付け、それを火種として新聞紙、薪へと火を移していく。 その後火が付いたらその上に、雨水を一度煮沸して保管しておいた水をやかんに注ぎ、もう一度沸騰させる。 外から気付かれないように僅かな灯りしかない住処の中でもわかるほどの湯気が立ち込め、その湯気が収まらないうちにカップ麺の容器へと注いでいく。 「カップ麺~。カップ麺~。今日も明日もカップ麺~。イヒヒヒヒ」 この料理が出来るまで待っている時間が玲にとって、一番楽しい時間だったかもしれない。 玲が食事好きな人間というわけでもない。 旧世界での玲はどちらかと言えば、男の中でもやせ型であった。 それこそ食べなければ生きていけない世界、今食べなければ次いつ食べられるかわからない世界になってから、積極的に食事を摂るようになった。 そのなかでも女がいない現状、性欲よりも食欲が勝り、食事が唯一の楽しみになっている。 電気もつくことはつくようだが、配電盤などを弄るための知識を玲は持ち得ていないため、旧世界で少し遊んでいたゲームを使って楽しむことはできなかった。 本や漫画も、銃や弓などの生きていくために必要な勉強の糧となるものや、それこそこの世界を生き抜くための予言書となったそれらの本などしか住処には置いておかず、無駄な物資の運搬は避けてきていた。 箸で抑えていた半開きの蓋を全て取り去り、食事を始める。蓋を開けると同時に出た湯けむりは玲の顔を薄っすらと濡らし、空気に溶けて行く。溶け切っていない粉末スープを箸で溶かしながら、麺を解し、一口程つまんだ麺を思いきり啜った。 静かだった住処の中に麺を啜る音が響き渡る。 夏だ。夏にエアコンの無い場所でカップラーメン。食事中には不快な汗が流れ落ちるが、もう慣れたものだった。それよりも味わい深い醤油ベースのスープの味を玲は楽しんだ。 生きている気がした。 食事は自分の生を実感させるとともに、やはり力が戻っていくのを感じさせた。世界がどれだけ変わっても食事は必要で、人は生きねばならなかった。 誰一人としていなくなった世界で玲は一人カップラーメンを啜っている。この状況がどれだけ寂しいことか理解できる者は誰一人いないだろう。かつては玲もこの孤独に慣れていく自分が怖かったが、その恐怖すらも今は消え去ってしまった。 しかしそれは本当に消え去ったわけではない。玲が人としての気持ちを思い出す時間があった。 食後、外に出ると雲一つない空は真っ赤に染めあがり、西に沈む日は崩れ去った建物を橙色に照らしている。黄昏時で逢魔が時。旧世界では妖怪たちが生き辛い昼から夜に変わるこの時間、彼らが活発に活動し始める時間として恐れられていた。 しかし時としてそれはもの寂しさと相まって、妖怪だけでなく先に旅立った者たちとの会える時間帯とも言えた。 「またレイがナーバスになりはじめたよ。弱虫、弱虫。イヒヒヒヒ」 外に出て武器を片手に寝転がり、移り変わっていく空を見ている玲はイヒ郎の皮肉を無視して、暗くなる空を見守る。 毎日この時間、玲はパンデミック直後から終息までの記憶を思い返す。そして涙を流すのであった。旧世界での友との別れ、自分の利益のために殺した者たちの表情、自分が裏切った人々。一人一人の顔を鮮明に思い出し、忘れないように記憶を脳に焼き付けていく。 あの時は生きるために仕方がなかった。そのことに関して文句を言える者はいないし、自分がその立場だったら――ということだろう。だが生きるために心を殺すということは、当時齢十七歳であった玲にはいささか難儀なことであった。 その当時こそは騙し騙しやってきたものの、全てが終わった今、それらは巨大な波のように玲の心に流れ込んできた。 もしあの時自分が裏切らなかったら、今孤独ではなかったのだろうか。 もしあの時自分が助けていたら、今共に食事をする者がいたのではないのだろうか。 もしあの時自分が殺さなければ――。 後悔は募るばかりだった。しかし最後こそ、空気の汚れは無くなり、澄み切った満天の星空を見て玲は言うのだ。 「まだだ、かかってこい」 と。 それが誰に向けてなのか、何に向けてなのか。自分を鼓舞するための言葉なのか、決意の表れなのか。恐らく玲にもわからないのだろう。 しかし明日も玲は生きていく。強く、そして弱く生きていく。
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