時は変わらずに過ぎていた。 備蓄の食料が無くなり始めていたために、玲は銃を手に取った。狙うは鹿。東京にも多くの雪が降るようになったのは、人がいなくなったからだろうか。 一昨年より去年より厳しくなった冬は、着実に玲の生活を蝕んでいた。まず雪に耐えることのできる服がない。足元は滑る、食料もない。しかし東京まで降りてきている鹿を狩ればそれらすべてを解決することができた。 衣服は鹿の毛皮で補い、食料は恐らく一匹だけで冬を越せる量を採れるかもしれない。運が良いことに夏に取った弾はまだ一発も使っていないため、余裕はある。弾を手に入れてから銃の手入れは欠かさなかったため、コンディションも十分だろう。 鳥は量も毛も足りないうえ、ここらではあんまり見なくなっていた。食べ物が無くなった山からかつて人が遺した物を食べに野生動物が街へ降りてくるなんてことは珍しいことではなく、それも今の地球はどこを見ても文明と自然の境界線はなくなっており、人がいた街さえも、感染者が成り果てた樹によって森と化していた。 吐く息が外出時、唯一の暖房器具と成り果てたこの世界で、鹿の足跡を見つけ凍えた手を擦り合わせることでなんとか動かす。足跡のずれや糞の量によってどれだけの数がこの道を動いていたのかを予想する。今、玲は銃を手にしてはいるが今日狩りをするつもりはなかった。 何日も何日も鹿の動向を観察して、ノートにそれら全てを書き込んでいく。鹿の群れはどのルートを通って、どこの店の食料を漁っていくのか。それがわかれば、そこに食料が無くならない様、玲には食べられないような食料などを補充していき、群れがルートを変えないように工作する。 そして観察を始めてから一週間程が立った後だった。 倒壊したビルの二階部分にキャンプを設営し、辛うじて地面との平行を保っていて、窓ガラスや壁が崩れ外への見通しの良いところに陣取る。 ライフルの先に台を添え、銃身がぶれないように安定させてから、比較的厚手の布を敷いた床に寝そべる。 アイアンサイトからルートを覗き、いつでも打てるように安全装置を外す。呼吸を整え、ただひたすらに鹿の群れが訪れるのを待った。 「大丈夫、絶対に来る」 「ああ、お前はよくやってきた。後はただ待つだけだ」 今日背後に現れたのは、軍帽のようなものを被った毬藻のような姿をしている軍曹だった。 心が折れそうになっている時は熱い言葉で玲を鼓舞し、何か大事な事が行われる時は緊張を解すように声を掛けてくれる。イヒ郎に比べればかなりマシなイマジナリーフレンドであったが、夏などに現れられては暑くて熱くて鬱陶しいものだった。 だが今はありがたい。特に彼は不安な時に現れてくれるから。 どれくらい経っただろうか。軍曹もまだいることはいるのだが、静かにしてくれている。イヒ郎とは違って軍曹は何か話してほしい時に話してくれるやりやすい奴でもあった。 そして来た。 美しい。 雄々しい角を持つ牡鹿を先頭に一つの群れとして餌を探し、街を巡っているのだろう。人とは違う。ただ生きるために生きている。欲など持たず、ただ生き、子を残し、種を繁栄させるために。 これほどまでに無垢な生き物たちを自分はこの手で殺そうとしているのか。 今まで食べるために人を殺し、生きるために人を殺し、時には怪しいという理由だけで人を殺した。 そんな自分がこれほどまでに美しい者たちを殺していいのか。自分が生きるためにこの者たちを死なせていいのか。 「撃て! レイ! 今しかないぞ! 撃つんだ!」 「だめだ、軍曹。俺には撃てない。撃てない……」 恐怖だろうか、違う。悲しみ、違う。哀れみ、違う。 これは……わからなかった。感じたことのない思いであった。初めて人を殺した時とも、初めて女を抱いた時とも。 畏怖。一番近いのは畏怖の念だろう。圧倒的な畏れ。自然という人とは違う別の何かに相対した畏れは一瞬のうちに玲のことを呑み込んでしまった。 頭を上げ、その角を主張しながら玲を見つめたと思われるその瞳は、底抜けのように深く、その引き金にかけている指を固めてしまった。 玲はそのまま鹿の群れが通りを抜けてしまうまで、何もできずにそれらを見つめるしかできなかった。 食べなければいけないのに、何も成果を得られなかった今日は、後食は無しだ。少し腹が減ってはいるが、外にある雪を火で溶かし、白湯を飲みなんとか空腹を凌いだ。 冬だから食べないとまずいのもそうだが、普段はどこかしらで食料を確保することができる。しかし今日は鹿を獲るつもりで家を出たために、収穫が本当にゼロであった。 こんな日が続くと本当に冬の途中で野垂れ死んでしまう。それこそ鹿に見つめられたときは、自分の方が死ぬべきと思ったかもしれないが、鹿の数と人間の数を考えてみれば、玲は何としても生きなければならなかった。 もうこの世界に一人として人間は生きていないのかもしれないのだから。 そしてまた日は昇る。玲はもう一度あの高台へと昇り、鹿の群れを待った。 「来た」 「どうせ今日も撃てないよ。イヒヒヒヒ」 今日はイヒ郎だ。ということは、軍曹の時と違って心に余裕があるということ。 少なくともこのうざったいやつが背後でぶつぶつと何かを言っている状態でも確実に仕留めることができる気がする。 そして今日もちゃんと来てくれた。あの鋭利な角を頭に備えた牡鹿を先頭に行動する鹿の群れが。 玲が餌を置いたポイントを点々と回りながら、ゆっくりと一番狙撃のしやすい場所へとだんだんと足を運んでいく。 狙う場所は左前脚の付け根。これが四足歩行動物の急所の位置だ。そこには心臓がある。 猟犬などを飼っているならば、それが手負いの獲物を追いかけ体力を減らし、どこで死んだか吠えることで教えてくれるのだが、そんなものを飼っていない玲は確実に直径ニ十センチほどの枠に弾丸を撃ちこまなければならなかった。 しかし玲はこの銃一本で最後まで生き残った人類であり、そんな的を撃ち抜くなんてことはいとも容易いこと。 ライフルの銃口から飛び出た弾丸は、舞い散る雪をかき分け、空気を切り裂き、牡鹿の心臓に対し一直線で、その軌道を描いて見せた。 弾丸が届くよりも先に音は鹿の耳に届く。驚き、そこから逃げ出そうと、体の向きを変えようとするが、玲はそれすらも予測していた。 確かに鹿の心臓を貫いた弾丸は地面に食い込み、やっとその勢いを止める。 玲は地面に倒れこんだ鹿を確認した後、狙撃地点の荷物を速やかにまとめ上げ、鹿の元へ走って行った。運が良いことに、文明が破壊された世界では水道管が破裂し、あらゆるところが水で溢れていた。 その水により建物の倒壊が促進されてしまっているのは確かであるのだが、獲物を解体するうえで血抜きをしなければならない現状、その惨状は有難かった。 それほど激しい運動をしたわけではないのに、玲の口からは多くの呼気が溢れ出ていた。それらは寒さによって空気を白く染め上げていく。それは今死に絶えた鹿も同じであり、鼻や口から血と共に、白い呼気が溢れ出ていた。 「狩った。やった――」 息絶えていることを確認した玲はまず鹿の首筋にナイフを滑り込ませ、大動脈を切断することで血抜きを行う。血を抜きながら持ってきておいたブルーシートを鹿と地面の間に噛ませ、それを引っ張ることでなんとか鹿を水場まで運んで行った。 辿り着くころには既にかなりの血液が流れており、ブルーシートは真っ赤に染めあがっていた。 そこから血の出ている首筋を水に晒しながら、内臓を切り裂かない様に腹を裂いていく。最初に感じるのは皮の感触であるため、結構力が必要であるが、そこで力を入れ過ぎて内臓を傷つけないのが重要であった。 その後肋のある胸の方向まで一直線に腹を裂き、ある程度の幅が取れたら一気に腹の中に腕を突っ込み内臓を外に引きずり出す。肝臓と心臓のみ切り分け、他はくず肉として別の場所に纏めておく。 次に頭を鉈で落とし、背ロースや枝肉の切り分けを想定しながら、皮を剥いでいく。 現状は一匹であるが、冬を越すには十分な量が取れたであろう。いくつかの枝肉やばらした肉は布の袋に詰め、袋を括った紐を剥き出しの鉄骨に引っ掛け、袋自体は水に晒しておく。 これからは住処とここを往復して全部の肉を住処に持っていく。 まずは皮と内臓類を持って帰り、車の上から雪を下ろし、そこに広げて乗せ、天日干しにする。 皮は放置すると固くなってしまうため、それなりの処置が必要であるが、まず野生動物の毛皮は日に当ててダニを取らなければならない。その間は辛抱だ。 また心臓と肝臓は先に切り分け、火を焚いておいたところに網を置いて焼き始める。新鮮なうちに食べないとだめになってしまうこの部位は、狩った者のみが食すことのできる役得部位だ。 少しの塩と香りづけの胡椒。勿体ないということはわかっていたが、こんな機会はもう訪れないかもしれない。だが、素材本来の味を失うのももったいない。最小限の調味料で最大限の贅沢を。 「いただきます」 焼きあがったのを確認したレバーを先に口に運ぶ。 薄っすらと香る胡椒はその肉のおいしさを引き立たせる。 レバー独特のとろりとした舌触りに強い血の香り。栄養を蓄える器官だというのを強く舌の上で実感する味わいだった。 今まで、もう美味しいとも言えないカップラーメンやレトルトカレーを食べていた玲にとって新鮮な動物質は有難くて堪らなかった。 その時だった。ふと、頭にあの鮮やかに生き生きとしていたあの牡鹿の黒い瞳を思い出す。 「ありがとう」 ごちそうさま、ではなくありがとう。あの牡鹿が自分に命をくれたという実感。それを途轍もないほど、それこそ滝のようにその感謝が心の中に流れ込み、玲の中で溢れていっていた。鹿は玲に命を上げる気なんて全然なかったであろう。だからこそ、ありがとう。謝罪ではなく感謝。 それは耐えなく涙として玲の瞳から溢れ出していた。 レバーの次に食したのはハツ。鹿を生かすために、巨大なポンプとして血液を鹿の体中に送っていた器官。その筋肉の塊はそれこそ弾むような食感で玲の歯を押し返す。 活力を感じた。生を感じた。 社会がまだしっかりとあった時には気づけなかったこのおいしさ。食べるということが、他の命を自分の中に宿すという感覚。玲は泣きながら食事を進めていった。 くしゃみをして玲は気付く。 花粉であろう。 最近はだんだんと暑くなり、外で激しく活動するときには鹿の毛皮の上着を脱ぐ機会も多くなった。 人が成り代わった木には青々とした葉が茂り、葉どころか実すらも付けている。植物についた木の実を食料として採るのは当然の行為であったが、人が成り果てた樹から出来た実を食す気にはなれなかった。 そう思いつつ、作業していたある日、玲はどこかで猫の鳴き声のようなものを聞いた。本当に遠くであったが、確かにひっきりなしに鳴いているのだ。気になった玲はその音を辿り、街を散策し始める。もう人には本当に会わなくなり、世界には自分しかいないのだろうと諦めかけていた時であった。 その音の元にはとてもとても大きな人樹――便宜上玲がそう名付けた――があり、その根元には丸々太った人樹の木の実が転がっていた。猫の鳴き声はそこからする。 いや、違う。玲は途中から気付いていた。この声は猫の鳴き声ではなく、赤ん坊の泣き声なのではないかと。 そしてその赤ん坊の泣き声がする木の実へと近づき、その木の実の皮を恐る恐る剥いてみると、そこにはちょうど産まれたてのような赤ん坊が寝転んで入っていた。 人類に新たな春が来たようだった――。
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