その距離384,400km
その距離384,400km

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 あの頃住んでいた長屋の一室。 狭い四畳半には小さなちゃぶ台と貧相な薄い布団。 そして、そんな部屋に似つかわしくない大きなカンバス。 そこには薄暗い部屋に似合わない嵐山の紅葉が鮮やかに描かれている。 彼女と初めて旅行に行った場所だ。 この風景を見た瞬間、あぁこれは夢なのだと脳の奥で理解した。 目の前には最後に会った時のまま美しい姿の彼女。 『まだ迷っているの?』 と、目の前に座る彼女が言う。 どうやらなんでも知っているようだ。 今でも僕のことを見ていてくれたのかもしれないと思うと、嬉しくくすぐったい気分になる。 彼女の中にまだ僕はいたのだと。 「いや、迷ってないよ。 …僕は、あの人と結婚する。」 もう決めたことだ。 彼女と別れたことはとっくに…とはいえないが、割り切っているつもりだ。 むしろもう懐かしい過去だと思える。 ただ、人生の中で一番愛したのは彼女である、というのはこれもまた変わらない事実だ。 愛している、なんてありきたりで陳腐だと思うがこれ以上の言葉を僕は知らない。 そういえば、愛していると同義の意で亜米利加にはI love youという言葉がある。 それを夏目漱石という作家は「月が奇麗ですね」と訳したと聞いた。 僕には何故それが愛になるのか理解することはできなかったが、文学者が言うのだからきっと僕の方が間違っているのだろう。 月が愛なのかはわからないが、女性が、否、少なくとも彼女が月の様に淑やかで闇夜を照らしてくれる人であったことは間違いなかった。 確かに僕は彼女のことを愛していたのだ。 おそらく一生分の愛を彼女に注ぎ込んだ。 彼女の柔らかい髪、とろけるような声、細い指先、今でも驚くくらいその感触を覚えている。 「なぁ、僕は…君の時間を食い潰した愚か者だったのかな?」 『そんなことないよ…。 ただ、私たちの歯車が少しだけ噛み合わなかっただけだよ。』 優しい声が脳内に響く。 このまま夢が覚めなければ彼女と結婚できるのだろうか。  ふと外を見ると仄かに橙色の光が見える。 澄んだ空気をランプの灯りが優しく照らす。いつの間にか冬になったようだ。 彼女と出会い、そして離れ離れになった時もこんな雰囲気の時だった。 まだ雪は降らない、でもそろそろ降るのだろうなと思うと自然と胸が高鳴り、この先の幸福を予感させる季節。 江戸が終わりを告げ明治へと移り、西洋の文化が本格的に日本でも親しまれるようになった頃。 今までは禁忌とされていた生誕祭という文化が本格的に入ってきた。 街は灯りに彩られ、教会にも多く人が出入りしていた。 その景色を見ていると、寒いが外に出るのが楽しくなるようになった。 洋服屋で一目ぼれしたというショールという毛皮の洋服を羽織った彼女と、ランプの暖かい灯に彩られた街中を歩くのはそれはそれは幸せだった。 そう、全て過去形。 今の僕の隣に彼女はいない。 あの手を放すことしかできなかった自分を本当に心の底から憎む。 彼女との出会いは、僕が東京商科大への進学を決め横浜から東京に出ることになった時。 顔の広い父の伝手で借りた家の管理をしていたのが彼女の叔父だった。 そして、東京に不慣れな僕のために案内役として6つ下の彼女が度々家に訪ねてくるようになった。 生まれも育ちも神田というだけあって近辺の店にはめっぽう詳しく興味をそそられる店も多く知っていて彼女と町を歩くのはとても楽しかった。 今まで貿易商をやっている父親の身分で言い寄ってくる女性はいたが、その浅ましさのせいで女性が苦手だった。 しかし彼女はそんな女性たちとは違った。 官吏の娘ということもあって大変着眼点も鋭く、不快になるどころか僕の方が新しい発見をすることも多かった。 また、西洋絵画の方にも造詣が深かったため日比谷ヶ原で油絵を描いている僕の隣でずっと楽しそうに絵が出来上がるのを見つめてくれているのも嬉しかった。 そんな彼女に惹かれるのは必然であった。 いつの間にか毎日顔を合わせ、僕が大学に行っている間に食事などを作ってくれているようになった。 おかげで勉強にも趣味の絵にも集中することができた。 そして彼女の両親はそんな僕たちを黙認してくれていた。 しかし、そんな関係も永遠には続かない。 大学を出た後も職に就くことなくずっと趣味の絵を続けている僕の親族はいつ父親の跡を継ぐのだと無言の圧をかけてくる。 彼女の母親にも、いつ実家の貿易商を継ぐんだと訊かれるようになった。 そんな目から逃げるように借りていた家を引き払い裏道の湿気った長屋を借りてそこで暮らし始めた。 昼間でも太陽は当たらない暗い四畳半で、売れない画家を始めたのだ。 そんな生活が続くこと3年。 とうとう痺れを切らした彼女にそろそろ自分の両親にしっかり挨拶をしてほしいと告げられた。 渋々一張羅を着て5年ぶりに彼女の実家を、もっと正確に言うと父親を訪ねた。 そして、まだ売れない画家の自分に、彼女の父親は娘を託してくれなかった。 『貴様なぞに娘はやれん。 娘が欲しいというのならくだらない絵なんて描くのをやめてさっさと職に就くことだな。』 彼女の父親に水をぶちまけられびしょ濡れになった状態の僕に言い放たれた言葉。 それは僕の中に深く棘として未だに残っている。 しかし尤もだと言い返す言葉もなかった。 あの頃は自分より彼女の方がよっぽど稼ぎが良かった。 女学校で優秀な成績を修めていた彼女はそのまま女学校の教諭として働かないかと学校から声をかけられ就職した。 反対に僕は画家になる夢を諦められず大学を出た後もふらふらと絵を描き続けていた。 最初こそ応援をしてくれていたが父親にも愛想をつかされ勘当された僕にかける情けなど官吏だった彼女の父親にあるはずもない。 僕と彼女でははっきりと身分が違うと突きつけられたのがこの言葉だ。 だから彼女が親に縁談の話を受けるのを止めることはできなかった。 残念ながら僕には彼女を縁談相手から心中覚悟で奪い去るなんて気概はない。 「なぁ…好きだよ。」 『私も好きだったよ。』 いくら言っても本物の彼女には届かない。 わかっている。わかっているのだ。 ただ、自分が未熟だったせいだと。 もっと早く売れていれば、などとありもしないことばかりを言っていても仕方ない。 いや、そもそも彼女を失いたくなければ僕自身がさっさと絵を辞めて父親の跡を継いでいれば良かったのだ。 それならば彼女の父親も満足して結婚を許してくれただろう。 わかっている。僕を待ってくれなかった彼女や彼女の父親を恨むなどお門違いだと。 ただ、これも僕の運命だったと受け入れるしかなかったのだ。  だから、僕は最後の悪あがきで先日腕輪を送った。 先週個展が開かれた独逸で見つけたものだ。 彼女の誕生石である橄欖石が埋め込まれた細い腕輪。 もし受け取ってもらえたなら、とてもよく似合うことだろう。 今、僕の目の前にいる彼女のように。 『大切にしてあげてね。』 「あぁ、もちろんだよ。」  窓の外には桜の花びらが散り始めている。 そろそろこの夢の時間も終わりのようだ。 今日、この夢が覚めたら僕は結婚する。 相手は僕の付き人を請け負ってくれていた人だ。 『彼女はいい人?』 「あぁ、売れない時から支えてくれていたからね。 とても献身的で、僕には勿体ないくらい素敵な人だ。」 この言葉に嘘はない。 描いた絵が全く売れなかった時だって、彼女との別れを余儀なくされた時だって、どん底にいた僕を常に引きあげてくれた。 絵が売れた時は一緒に喜び、その純粋さが眩しく僕を照らしてくれる太陽を好きにならないわけはなかった。 本当に感謝しかない。 それなのにまだ彼女のことを思い浮かべている僕はなんて業の深い人間なのだろうか。 「ありがとう」 『今日、晴れるといいね。』 「だって君が来てくれるのだろう?」 『お幸せに。』 彼女は満面の笑みでそう告げた。   目が覚めると、庭先に夢の中の彼女を思わせる一輪の向日葵が咲いていた。 いつ植えたものだろうか。僕の記憶には残念ながら残っていない。 「おはようございます。」 「おはよう。よく眠れたかい?」 「えぇ。あなたは?」 澄んだ黒い瞳で見つめられる 沈み込んでいたあの頃、救い出してくれた時と同じ視線だ。 すべてを見透かしたかのような強い視線。 「…あぁ、よく眠れたよ。」 「それは良かったです。 …きっと今日はいい日になりますよ。」 静かに微笑んだ彼女に、僕はまた嘘を吐く。 「そういえば、庭先に向日葵が咲いていたね。」 「えぇ。とても奇麗に咲いたでしょう?花言葉はご存じですか?」 「いいや。何て意味なんだい?」 「あなただけを見つめる。ですよ。」  ここ最近降り続いていた長雨が嘘のように、太陽が降り注いでいる。 どうやら完全に梅雨は明けたようだ。 雨男の僕としては、雨の中の結婚式とならなくて少し安心した。 僕の方はともかく、彼女の方の主賓や来賓の方々の足元もぬかるみで汚さなくて済む。 今日、彼女は来てくれるだろうか。 あんな夢を見たせいで、不安が脳裏を掠めた。 一応出席の返答はもらっている。 しかし、6年も付き合いながら幸せにできなかった僕にその姿を本当に見せてくれるのだろうか。 そして、夢の中の彼女の様に僕の結婚を祝ってくれるだろうか。 彼女の夫が行くな、という可能性は大いにある。 夫という立場からしたら、僕という存在は邪魔でしかない。 もし移り気などされたら男としての自尊心はどうなるだろうか。 少なくとも僕なら立ち直る自信はない。 それにも関わらず、ここに来ることを許してくれたら彼はとても高徳な人だろう。 「ご友人がお見えになりましたよ。 式の前にお顔が見たいそうです。」 鏡の前で静かに時が過ぎるのを待っていると仲人が声をかけてきた。 「わかりました。通して下さい。」 「かしこまりました。」 はて、友人とはいったい誰だ? 式の前に顔を出すなんて、よっぽど酔狂な人だ。 あまり心当たりがない。 残念ながら売れない画家なんてことを長らくやっていたせいで友人と呼べる友人はそう多くないのだ。 「久しぶりですね。」 懐かしい声がした。 振り返ると、美しい振袖姿の君がいた。 濃紺の生地の袂と裾に桜が散りばめられた姿はまるで夜桜そのもののようだ。 出会った頃と変わらない美しい姿は彼女だけ時間が止まっている錯覚を起させる。 そして、揺れる袖口に一瞬だけ見えた。 左手首に、独逸の土産として送った腕輪を付けているのが。 細い手首に細い腕輪はとてもよく似合っていて、淡い緑色が輝いていた。 「…久しぶりだね。」 何故か僕の頰を一筋の涙が伝った。  「旦那様、もう九時になりますよ?旦那様?」 いつもは七時には起きてくる旦那様がいつまで経っても起きてこない。 不審に思いながらも昨夜は遅くまで仕事をされていたようだから、と九時まで待ってみたがそれでも起きてこない。 不審に思って部屋の戸を叩いてみても返事がない。 意を決してノブを捻って最初に目に入ってきたのは、 「満月。」 大きなカンバスに描かれた闇夜に浮かぶ大きな大きな月。 そしてベッドに横たわる旦那様の姿。 「13年でお着きになったのですか。」 窓の外では柳の葉が揺れている。

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