「小説 ヴォツェック」
ヴォツェックー1
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 **(wozzeck 1)**  ◆  夜が明けても霧に包まれていた。白くて冷たい霧。人々を暗い気持ちにさせ、頭から押さえつけるような霧だった。この季節、ここではこうして一日中、陰鬱な空気に閉じ込められる。  兵舎の一室で、大尉が朝の身支度を整えていた。うすら寒い部屋。大尉は髪の薄い赤ら顔で、せり出した太鼓腹を抱え、大仰そうに椅子に凭れている。  兵士のヴォツェックは大尉の髭を剃っていた。ヴォツェックは毎日のように大尉の髭を剃っているのだ。大尉の顔に白く泡立てた石鹸を塗りたくり、髭剃りに取り掛かろうとした。だが、ヴォツェックは剃刀を研いだり、タオルを取りに行ったりとせわしなく動き回る。  それを大尉が見咎めた。 『落ち着け、ヴォツェック。一つのことがすんでから次に掛かれ。お前が十分早く終えたところで、吾輩は残った時間に何をすればいいんだ。お前は、あと三十年は生きるんだぞ。つまり、360ヶ月だ。何日、何時間、余った時間で何をする。人生は時間配分が大事だ』 『はい、大尉殿』  ヴォツェックはポツリと返事をしてタオルで手を拭いた。 『永遠ということを考えると、吾輩はこの世が恐ろしくなる。永遠は永遠だからな。それぐらいは分かるだろう、ヴォツェック。だがな、永遠はまた一瞬でもあるんだ。地球が一日で一回転していることを思うと不安でしかたない。だから、吾輩は水車を見ていられんのさ、憂鬱になるからな』   『はい、大尉殿』  ヴォツェックは上の空で繰り返した。 『ヴォツェック、お前はいつも慌ただしい。善良な人間は、心がやましくない人間は、何事もゆっくりするものだ』  大尉は外を見て『今日の天気はどうだ』と訊いた。 『とても悪い天気です。風が出てきたようです』 『うむ、部屋の中でも風が吹いてるのが分かる。この風はネズミが駆け回っているような音がするな・・・風は<南北>から吹いているようだな』 『大尉殿のおっしゃる通りです』 『バカか、お前は。<南北>から吹いてくる風があるものか』  大尉はけたたましく笑った。ヴォツェックが髭剃り刀を顔に当てたので、今度は態度を変えて優しい声になった。 『ヴォツェック、お前はいい奴だ。だが、道徳心がない。道徳心があるとは、道徳的な人間のことだ。分かるか、いい言葉だろう、道徳とは。ところで、お前の子供は教会の祝福を得ていないんだったな』 『はい・・・』  ヴォツェックには正式に結婚していないマリーとの間に子供がいる。そのことをたびたび非難されているのだった。 『これは吾輩が言うんじゃない、うちの部隊の牧師が言っていた、教会の祝福を得ていない子供だと』 『あの哀れな子が生まれる前に祈りが捧げられなくても、おそらく神は気にも留めないでしょう。聖書には<子供が私のところへ来るのを妨げてはならない>と説いています』 『コイツ、奇妙なことを言いおって、こっちの頭が混乱するじゃないか。「コイツ」とは、つまり、お前のことさ』  髭剃りをすませたヴォツェックは低い声でボソボソと語る。 『大尉殿。自分たちは貧乏人なんです。金がないんです。道徳的な方法で子供を産むことも叶いません。金があれば紳士らしく帽子を被り、眼鏡をかけて、懐中時計でもぶら下げられるでしょう。だけど、貧乏人には先立つものがないんです。品行方正でいられる人が羨ましいですよ。自分たちみたいな貧乏人はこの世でも、あの世でも貧乏しなくっちゃならんのです。あの世に行ったら、雷様を起こす係にでもされるのがオチです』  ヴォツェックに恨みつらみを吐露されて、大尉はいい加減嫌気がさしてきた。 『分った、ヴォツェック、もういい。お前はいいヤツだ。だがな、いろいろ考えすぎると身体を壊すぞ。お前はいつも慌てているから話していると疲れるんだ。下がってよい、ただし走るな。道の真ん中を行けよ、ゆっくりとな』  ◆  ヴォツェックは同僚のアンドレアスと川べりで葦を刈り取っていた。大尉の命令で杖にする枝を探しているのだ。だが、実態は杖というよりは教練に使う鞭だった。 『おい、この場所は・・・呪われているぞ』  ヴォツェックは葦を刈る手を止めた。アンドレアスはそれには取り合わず、刈り取った葦の束を積み重ねながら陽気に歌を口ずさむ。 『~狩りは楽しい、鉄砲が打てる。おいらは狩人になりたい~』 『呪われているんだ・・・あの光が見えるか。毒キノコが光ってる。夜になるとあそこに首が転がっている。ある男がそれを拾って三日後に棺桶に入れられた』  アンドレアスの目には光は見えていない。ヴォツェックだけに幻覚が見えているのだ。 『暗くなってきたな。ヴォツェック、怖くなったんじゃないのか。~目の前にやってきたウサギが訊いたんだ。あんたは狩人かって。そりゃ、昔は鉄砲を担いでいたけど、今は撃てなくなった~おい、一緒に歌えよ』 『フリーメーソンだ、フリーメーソンの仕事だったんだ。黙ってくれ』  ヴォツェックは鎌を投げ捨て地面に座り込んだ。 『空虚だ、何もかも虚ろだ。おい、足の下で何かが動いたぞ、気付かなかったか。ここは呪われている。息が詰まりそうだ、逃げよう』  逃げようと言いながらも、ヴォツェックは地面を見つめてしゃがんだままだ。その様子が変なのでアンドレアスは薄気味悪くなってきた。 『変なことばかり言って、気は確かか、ヴォツェック』 『蒸し暑くて息が詰まりそうだ・・・火だ、地面の下から天に向かって炎が立ち上っていくぞ。ラッパが鳴り響いてる。蒸し暑い、息が詰まりそうだ・・・』  彼には、そこには存在しない炎が燃え盛っているのが見えている。幻覚だ。ヴォツェックは指先を暗くなった空に向けた。 『静かだ・・・何もかもが死んでしまったようだ』  アンドレアスはそれを無視して刈り取った葦の束を肩に担いだ。ヴォツェックも束を抱え兵舎へと向かった。  ◆  ヴォツェックにはマリーという愛人がいた。二人は正式に結婚はしていなかった。三歳になる男の子が一人いるのだが、めったに家に帰らない父親には懐かなかった。  マリーは低い棟続きの長屋に住んでいた。部屋の中はベッドが一つ、それにカマドとテーブルがあるきりだ。壁にはどす黒い汚れがこびり付き、部屋の中にいても土の匂いがしていた。部屋も人の心も凍り付いていた。  遠くから軍楽隊のラッパと太鼓の音が聴こえてきた。マリーは子供を抱きかかえて窓際に寄った。 『チンブン、ほら坊や来たわよ』  軍楽隊が目の前に来た。先頭の鼓笛隊長は金モールの制服に身を包み、堂々とした体躯をしている。  隣の家のマルグレートが鼓笛隊長を見て『何と立派な体』と言った。マリーも『ライオンのように逞しい』と叫ぶ。 『あら、マリーったら、さっそく色目を使って』 『関係ないでしょ』 『何よ、このあばずれ』  マルグレートがさんざんに悪口を言った。 『言わせておけばいいわ。お前はかわいそうな子供だけど、その恥さらしな顔を見て私は幸せなのさ』  マリーは子供を強く抱いた。寝かしつけようとして呟くように歌を歌う。 『子供がいても夫はいない。どうすりゃいいんだろう。誰も助けちゃくれない』  窓を叩く音がして振り向くとヴォツェックが立っていた。 『フランツ? 帰って来たの、入って』 『ダメだ、すぐに兵舎に戻らないと、ああ、マリー』 『フランツ、様子がおかしいわ』  普段から陰気な夫だが、このところますます暗くなった。マリーはそんな夫の顔を見るだけでも気が滅入った。 『静かにしろ、分ったんだ。空に何かの像が浮かんで炎に包まれた』 『ちょっと、あんた』 『それで今はすべてが暗闇だ。何かが追いかけてくる、どうなっているんだっ』  興奮が収まらないのでマリーは子供を見せて落ち着かせようとした。 『あなたの息子よ、フランツ』 『おいらの子か・・・』  ヴォツェックは子供を押しのけて兵舎の方へ歩いて行った。 『あの人、自分の子供なのに目もくれなかった。気が変になったんだわ』  子供を抱きしめた。不安になって大きなため息をついた。夕方になって部屋の中は陽も差さなくなった。暗い部屋。煤けた壁、軋む床、すきま風が舞い込む窓。出るのはため息ばかりだ。こんな暮らしにはもう耐えられない。  ◆  兵舎に隣接して病院棟が建っていた。その地下に軍医の研究室が設けられていた。勤務している医者は体格が良く、眼鏡をかけて顎髭を生やしていた。頭髪は真ん中からピタッと分けている。研究室の中は聴診器や顕微鏡などの道具が置かれ、隅には診察台と人間の骨格模型があった。  マリーの家を後にしたヴォツェックは医者のもとを訪ねた。一日に一回は顔を出せと言われていたのだ。ヴォツェックが研究室に頻繁にくるのには別の理由があった。実験の材料にされているのだ。  医者は椅子に座ったままヴォツェックを𠮟る。 『ヴォツェック、約束を忘れたのか』 『何のことですか、先生』 『見たんだぞ、お前は道の脇で立ち小便しただろう。毎日、銅貨をあげているというのに、何たることだ』 『でも、先生、自然にしたくなったら・・・』  ヴォツェックが言い訳しようとするのを医者が遮った。 『何と言ったんだ。<自然に>だと? そんなものは迷信だ。膀胱は意志でコントロールできると教えてやっただろう。私の研究がそれを証明している。人間は自由だ、個性が人を高める。それを立ち小便するなんて』  医者が椅子から立って尿瓶を渡した。ヴォツェックは衝立の後ろに入ってズボンを下ろした。しばらくしてヴォツェックが尿瓶に用をたして医者に差し出した。医者はそれを受け取って満足そうに頷いた。 『今日は豆を食べたか』  ヴォツェックは気を付けの姿勢をとって『はい』と返事をした。 『よろしい、お前が食べていいのは豆だけだぞ・・・そうだ、来週からは羊の肉でも試してみるかな。科学に革命を起こしてみせる。蛋白質、脂肪、炭水化物。つまりはオキシアルデヒドアンヒドリーデだ』  医者は研究成果を並べて誇示してみせた。ヴォツェックに豆だけを食べさせ、人体に与える影響を調べていたのだ。研究に名を借りた人体実験である。 『だが、立ち小便はしてはいかん・・・待てよ、怒りは健康に悪い』  怒りが爆発しそうになるのを堪えて冷静さを取り戻した。ヴォツェックの胸に聴診器をあて、次に脈拍を調べようとしたが自分の脈拍を計った。 『脈拍は60・・・私はいたって正常である。人に対して怒ってはならん、だがな、小便をするとは』 『先生、性格とか体格の差はあるでしょうが、自然は別物ですよ』 『また屁理屈を言い出しおって』 『もし、自然がなくなって、世の中が真っ暗になって、蜘蛛の巣みたいに消えたらどうすりゃいいんですか。何かがあるような、何もないような・・・真っ暗だ。マリー』  ヴォツェックの様子がおかしい。医者がおこなっている人体実験が効果を現してきた証拠である。 『太陽が輝く昼間、恐ろしい声がしたんです。先生』 『お前、精神が錯乱したのか・・・』 『キノコだ。地面にキノコが丸くなって生えていたんだ。あの丸い形を確かめられればいいんだが』 『ヴォツェック、お前は精神病院行きだ。その固定概念、第二種部分的錯乱だ。立派に発症している。そうだ、手当てを増やしてやろうではないか。言われたとおりにやっているだろうな。大尉の髭を剃っているか、豆を食っているか』 『先生のおっしゃる通りやっていますとも。給料は妻に渡しています』  実験が成功しつつあるので、医者は普段より一枚よけいに銅貨をヴォツェックの手のひらに載せた。 『頑張れよ、ヴォツェック。お前の務めは何だ。言ってみろ』 『マリー』 『お前の務めだ』 『マリー』  何を訊かれてもヴォツェックはマリーと繰り返す。 『豆を食べろ、次は羊肉を食べるんだ。大尉の髭を剃れ、立ち小便はするな。そして、固定概念を持ち続けるんだ。我が学説、我が業績。おお、不滅の名誉を手にできるぞ。不滅の名誉、不滅の名声だ・・・よし、ヴォツェック、診察してやる、舌を見せろ』  ◆  そのころ、マリーはというと・・・  マリーの家を訪れた鼓笛隊長に抱きすくめられた。『お前はいい女だ』と言いながら胸をまさぐる。マリーはその手を軽く噛みついた。 『ふん、気の強い女だな』  今度はもっと強い力で抱きしめられた。 『もう・・・好きにして』  マリーは鼓笛隊長の手を取って部屋の中へと入った。  ◆
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