「小説 ヴォツェック」
ヴォツェックー2
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 **(wozzeck 2)**  ◆  男の子がマリーのイヤリングを珍しそうに指で揺らした。軍楽隊の鼓笛隊長からもらったものだ。マリーはひび割れた鏡をかざしてみた。 『なんて光る石、彼は何と言っていたっけ・・・さあ、坊や、横になりなさい。寝ないとどこかへ連れていかれるわよ』  子供を寝かせようとして額を撫でた。 『私たちの持ち物っていったら、この辛気臭い部屋と割れた鏡くらいしかない。私の唇は紅い、貴婦人よりも紅い。でも、私は貧しい女』  寝たと思った子供がうっすらと目を開けた。なかなか子供が寝ないので、マリーはまた鏡を手にしてイヤリングを見てうっとりした。見惚れていて、ヴォツェックが部屋に入ってきたことも気が付かなかった。 『それは何だ、光っているのは何だ』 『フランツ・・・イヤリングよ、拾ったの』  とっさに嘘をついた。鼓笛隊長からプレゼントされたとは口が裂けても言えない。 『一度に二個もか、そんなもの拾ったことはないぞ』 『悪いことだったかしら』 『いや、いいんだ』  イヤリングを拾ったという言い訳に明らかに不信感を表した。ヴォツェックは子供の傍らに立った。 『よく寝る子供だ。額に汗をかいているな。昼間は太陽の下で働き、夜は汗をかいて眠る。これが貧乏人の掟だな』  ポケットをさぐって銅貨を取り出しマリーに差し出す。 『給料だ、大尉と、それから医者にもらった分もある』 『ありがとう』 『もう行かないと・・・』  マリーはイヤリングを道で拾ったと言うのだが、ヴォツェックはその言葉は信じられなかった。誰かにもらったに違いない。しかし、妻にイヤリングをくれるような、そんな男がいるのだろうか。  それを知らないのはヴォツェックだけだった。お喋り好きの隣人たちによって、鼓笛隊長とマリーの噂はすでに広まっていた。  ヴォツェックは銅貨をマリーの手に押し付けて立ち去った。 『ああ、どうせ私は悪い女よ。自分を刺し殺したくなっちゃう・・・なにさ、イヤリングがどうだって言うの。男も、女も、子供も、みんな地獄に堕ちればいいんだわ』  子供が起き上がって不安そうにマリーを見た。  ◆  今では城壁はところどころ崩れているが、その当時は立派な塔があって壁の上の回廊を歩くこともできた。もっとも、立ち入りを許されていたのは軍の関係者だけであったが。  霧が立ち込める城砦の回廊を軍医がせかせかと足早に過ぎる。それを太った大尉が呼び止めた。軍医はヴォツェックに人体実験を施している医者であり、大尉は髭を剃らせている上官である。 『やぶ医者先生、いえ、軍医殿、そんなに急いでどちらへ』 『鬼教官殿、いや、大尉殿、のんびりどこへ行かれるのですかな』 『そんな走りなさるな、棺桶の釘、いえ、軍医殿。善人は急がないものだ。それでは死に急いでいるようなものですぞ』 『忙しいので、急いでおるんです』 『やぶ医者先生、足がすり減りますよ』  大尉は医者に追い付いた。太っているので早足になると息が上がった。城壁に手を付いてゼイゼイと息をする。医者はそれが面白くて、大尉の相手をする気になった。 『大尉殿、こんな話は如何ですかな。四週間で死んだ女がいましてね、子宮ガンでした。四週間でね。こんな患者を二十人も診てきました。興味深い標本ができますぞ』 『おどかさないでくださいよ、ショック死ってこともあるんですから』  大尉がはち切れそうに膨らんだお腹を摩った。さらに医者が追い打ちを掛ける。 『あなたはむくんでいて体も首も太い。大尉殿は脳卒中にかかりやすい体だ。脳卒中。そうだ、半身不随になる恐れがある、運が良ければ下半身だけですむかもしれない』 『おお、なんということを』 『四週間後にそうなるとして・・・舌でも残ったら、歴史に残る偉大な研究ができるというのものだ』  脳卒中になってはかなわない。大尉は医者の言葉に動揺して腕に取りすがった。 『先生、やぶ医者殿、その言い方は、まるで死神に友人がいるみたいですな。四週間ですって。おどかさんでくれ、ゴホッ』  大尉が激しく咳込む。すっかり脅しが効いたようだ。 『ああ、すでに目に浮かんでくる。ハンカチで目を覆った連中が言う言葉が。あの人はいい人だったと・・・いい人だった』  大尉には、自分の葬儀に集まった人たちの会話が聞こえてくるような気がした。  そこへヴォツェックが通りかかった。医者は矛先を変えてヴォツェックに声をかけた。 『そんなに急ぐな、ヴォツェック』  ヴォツェックは立ち止まって軽く会釈をしたが、大尉の姿をみとめて敬礼した。先ほどまでは医者にやり込められていた大尉は俄然勢いを取り戻した。 『その歩き方、お前はまるでナイフのように尖っているな。触ると手が切れそうだ。世の中の大学教員の髭をすべて剃らねば、死刑になるとでも思っているのか。髭、髭といえば』 『長い顎鬚ですな』 『そういうことです。おい、ヴォツェック、家の中で髭を見なかったか、長い髭を。我が隊の兵士か士官か、それとも、軍楽隊の鼓笛隊長だったかもしれんぞ』  大尉がそれとなくヴォツェックの妻と鼓笛隊長の仲をほのめかす。医者も面白がってそれに応じた。 『お前は貞淑な妻を持っとるよなあ』  二人は顔を見合わせて笑おうとしたがグッと堪える。ヴォツェックはどうしていいか分からずますます緊張した。 『何が言いたいんです、軍医殿、大尉殿』 『ヴォツェック、急げば間に合うぞ、証拠が見つかるもしれない。吾輩も昔は女に恋をしたことがあったなあ』 『大尉殿、私は貧乏で、妻以外に何もないんです。冗談にも・・・』  妻の不貞?   イヤリングはやはり誰かにもらったものだった。拾ったというのは嘘だった。もちろん、貧乏人には買えるはずもない。不安がじわじわとこみ上げる。妻の傍らに立っているのはヴォツェックではない誰かだった。 『お前、顔が青ざめとるぞ。冗談とは失敬なことを言うにも程がある』 『貧乏人にとって、この世は灼熱地獄みたいなもんなんです、冷たい灼熱地獄です』  動揺したのか、ヴォツェックが意味不明なことを言い出した。医者は職業柄、脈をとろうとして彼の腕を掴んだ。 『うむ、不整脈だ。頬の筋肉が強張っている、目も虚ろだ』  妻の浮気をほのめかされ、ヴォツェックは後退りして城壁の壁に背中をぶつけた。ただでさえ、医者の実験台にされ精神のバランスが崩れかけているというのに、さらにマリーの裏切りがヴォツェックを追い詰めていく。  両手で頭を抱え、体をくねらせて声を絞り出した。まるで、そこに誰もいないかのように大声を出す。 『ああ、首を括りたい気分だ。そうすりゃあ、こっちの気持ちを分ってくれるだろう』  ヴォツェックが頭を押さえたまま駆け出した。 『面白い男ですな、ヴォツェックは』  自らの人体実験のせいにもかかわらず、医者はヴォツェックが変調をきたしているのを他人事のように面白がった。 『あいつといると眩暈がしてくる。善良な人間は神に対して感謝するものだ。妙な勇気を持ってはならん。勇気を持つのは卑しい人間の成せる業だ。卑しい人間の・・・』  大尉は自分に納得させるかのように言って、医者とともに歩き出した。  ◆  マリーは戸口に立ってぼんやりしていた。家の前の道ははぬかるんでいる。ここは周囲より一段低い土地なので水はけが悪い。だから部屋の中もジメジメしている。  そこへ遠くからヴォツェックが歩いてくるのが見えた。いつものようにせかせかと歩いている。猫背気味で歩幅は狭く、腕をだらりと下げていた。鼓笛隊長の姿勢の良い歩き方とは雲泥の差だ。 『こんにちは、フランツ』  マリーが挨拶するとヴォツェックは頭に手をやって首を振り、それから睨み付けた。 『何も見えない、見えないんだ。見えないと手で掴むことができない』 『どうかしたの』 『お前はマリーか、確かにマリーか。恐ろしいほどの罪だ。天に届くほど臭う。天使を燻せるくらいだ。ああ、お前の唇は紅いな・・・水疱はできていないか』  以前から夫の様子がおかしかったと感じていたが、それがさらに進行してきたのだ。顔が青ざめ、目が座っている。狂気の目だ。 『大丈夫? フランツ』 『美しいなあ、お前は。大罪のように美しい・・・だから、ああ、あう』  マリーをきれいだと褒めいたが、ヴォツェックが突如叫びだした。 『ここに、この戸の前に、男が立っていたんだな』 『人が道に立っていたって、追い出すことはできないわ』 『ここにいたんだ』 『一日は長いし、いろんな人が通りかかる。そこに立った人もいるでしょうよ』 『見たんだ』 『太陽が照って、明るいなら、何だって見えるじゃない』 『お前はあの男と一緒だった』  ヴォツェックは身体を硬直させ、腕をバタバタさせた。はぐらかされて、とうとう自制できなくなったのだ。気の強いマリーも負けていない。 『だから何だって言うの』  マリーの反抗に遭ったヴォツェックは彼女に詰め寄った。右の拳を振り上げた。 『触らないで。私を叩こうっていうの、父親にもぶたれたことはないのよ。いっそのことナイフの方がましってものだわ』 『ナイフか・・・』  ヴォツェックはとたんに大人しくなった。 『この世は地獄だ。眩暈がする、眩暈が』  力なく下を俯くヴォツェック。その手には目に見えないナイフを握っていた。  ◆  兵舎のはす向かいに古い酒場があった。  今夜も兵士や職人たちで賑わっている。薄暗い店内はブランデーの匂いと煙草の煙が充満していた。兵士や職人ばかりでなく、下級士官が町の女を伴って訪れることもある。  ヴァイオリンとアコーディオンだけの楽団がワルツや民謡を奏で、フロワーでは若い男女が頬を寄せて踊っていた。踊りの輪の中には、鼓笛隊長とマリーの姿もあった。二人は抱き合って踊っている。鼓笛隊長の立派な体躯はどこにいても一際目立っていた。マリーは彼の胸に顔を埋め、男を放すまいと背中に回した腕に力を入れた。  一人の靴職人が酒瓶を片手に歌い出した。酔っているのですっかり調子が外れている。 『~このシャツは俺の物じゃない。俺の魂はブランデー臭い。何だか分からんが、悲しくってしかたない、銭も腐るぞ~』  パン屋の見習いがそれに絡んだ。 『おい、兄弟。俺たちの鼻が酒瓶だったら、勢いよく喉に流し込めるってもんだ。そしたらこの世はバラ色だ』  二人して『酒だ、女だ、悲しくなる』と慰め合い、長椅子にへたり込んだ。  ヴォツェックが酒場に入ってきた。目を凝らすと踊りに興じる人々の中に鼓笛隊長とマリーが抱き合っているのを見つけた。  やっぱり、あいつだ。あの男だ。イヤリングをくれたのはあいつだ。自分が汗まみれで働いているスキにあいつはマリーの部屋に行ったのだ。  このまま黙って見逃すわけことはできない。しかし、人数が多いうえに、クルクル回りながら踊っているのでは近寄ることができなかった。ヴォツェックは酔っ払いが寝込んでいる長椅子の陰に身を潜めた。騒がしい酒場の店内にあって、そこは照明の当たらない闇同然の場所だった。  闇に潜むヴォツェックに見せ付けるかのように、鼓笛隊長とマリーは体を密着させて踊り続ける。ヴォツェックのところにまで、『楽しい』と、マリーの声が聞こえた。 『楽しいだと? せいぜい踊っているがいい。淫らに絡み合った男と女、人と野獣だ。マリーが熱くなっているな。あいつがマリーを抱きしめた、マリーは喜んでいる・・・畜生、覚えてろ』  長椅子の背後から飛び出そうとしたとたん、音楽が止んで踊りの輪が解けた。勢いが付いていたヴォツェックは足がもつれて床に尻もちをついた。マリーは鼓笛隊長にエスコートされて奥の席へと移動した。  若い兵士や職人たちが『ハリ、ハロ、ハリ、ハロ』と、大声でがなり立てるとアンドレアスがギターで伴奏を付けた。 『何時だ、アンドレアス』  ヴォツェックがアンドレアスに時間を訊ねた。 『11時』 『もっと遅いかと思った。楽しいことをしている奴らを見ると、時計の経つのがやけにゆっくりだ』 『立てよ、ヴォツェック。そんなところで何をしているんだ』 『放っておいてくれ、追い出されるまではここにいたっていいだろう。冷たい墓場に寝ているみたいさ』 『酔っているのか』 『全然酔えないんだ』  吐き捨てるように言った。  酔っ払いが酒ビンを片手に椅子の上に乗ろうとしてバランスを崩してよろめいた。それをアンドレアスが背中を押して椅子に上らせた。酔っ払いは聴衆を見下ろし、意気揚々と演説を始める。 『お集まりの方々。時の流れに掉さした、さすらいの職人が、<どうして人はこうなのか>と訊ねました。だが、みなさん、これでいいんです。神が人を造らなかったなら、農夫も樽職人も、それに医者までも仕事がなかったじゃありませんか。神が人の心に羞恥心を与えなかったら、仕立屋は生計が立てられなかった。ですから、みなさん、ご安心ください。この世は虚しい、金はなくなるし、吾輩の魂はブランデーに満たされた・・・』  やんやの喝采と、怒号が飛び交うなか、演説していた男は引きずり下ろされた。演説が終わって静かになると楽団が演奏し始める。あちこちに踊りの輪ができた。マリーと鼓笛隊長も踊っている。  そこへジャガイモを転がしながら男がやってきた。この男、常に言動が一風変わっていることで知られている。男はヴォツェックに話しかける。 『たのしいな、たのしいな・・・おや、なにかにおうぞ』 『何か用か』 『ちのにおいだ』 『ち・・・血か。血だな、目の前が真っ赤だ・・・血だ』  ヴォツェックは両手の指を曲げ、力を込めて震え出した。首を曲げてマリーと鼓笛隊長を睨み付けた。 『踊っているな、みんな。あいつもだ』  調子の外れたヴァイオリンがギギーッと悲鳴を奏でた。  ◆  その夜のことだった。  兵舎の宿舎では二段ベッドに兵士たちが泥のように眠っていた。ヴォツェックとアンドレアスは隣り合ったベッドの下段に寝ていた。誰もがぐっすり眠り込んでいる中で、ヴォツェックだけは目が煌々と冴えていた。  むっくりと起き上がった。 『眠れないよ、アンドレアス・・・目を閉じるとあいつらの姿が目に浮かぶ。ヴァイオリンも鳴ってる、壁から声が聞こえる。お前には聞こえないのか』 『いいから、踊らせておけ』 『ナイフだ、幅の広いナイフが光った』 『寝ろって、ヴォツェック』  宿舎の入り口が騒がしくなった。酔った鼓笛隊長が、宿直の兵士が止めるのも構わず入ってきた。ドアにぶつかったのもかまわず喚き散らしている。 『こら、よく聞けよ。俺は立派な男だ。いい女を手に入れた、いい女だぞ。あの胸、あの腰つき、最高の女だ』  どこの女ですか、誰かが訊ねた。 『あいつに訊いてみろ、ヴォツェックに訊いてみろよ』  鼓笛隊長がヴォツェックを見つけ、襟首を掴んだ。酒瓶を振りかぶってヴォツェックの頭にブランデーをかけた。ヴォツェックが払いのけると鼓笛隊長は瓶を放り投げた。たちまち二人は取っ組み合いを始めた。酔っていても鼓笛隊長のほうが遥かに力は強い。太い腕でヴォツェックをなぎ倒し、投げ飛ばしておいて足で踏み付けた。  兵士は係わり合いになりたくないので毛布をすっぽり被って寝たフリをしている。鼓笛隊長が千鳥足で立ち去った。アンドレアスが心配してヴォツェックを覗き込んだ。 『血が出ている』  ヴォツェックは床に倒れて呻いた。肘を付いて体を横向きにし、鼓笛隊長が出ていったドアを睨みつける。 『一人ずつ・・・やってやる』  ◆
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