「小説 ヴォツェック」
アルテハイムの町(2)
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 アルテハイムの町(2)  蛇がいなくなったのでまた歩きだした。お花畑の向こうに家が見えてきた。ルルのお爺さんの家だ。その家は、周辺の家とはまったく異なっていた。四角い直方体が幾つか組み合わさった、バウハウス様式だったのだ。 「バウハウスですか、この建物は」 「そう、バウハウスよ。日本人のハヤトが知ってるなんて思わなかった。あたしは詳しいことは知らないけど、何だか変わっててお爺さんの自慢の家なの」  アルテハイムにバウハウス様式の家が建っているとは驚きだった。お爺さんの自慢だというのだから相当な年月が経過しているはずだ。 「でも、部屋の中を見たらがっかりするかも、台所と暖炉があって、ベッドがあって、おまけに散らかってる」  この家でルルは両親とお爺さんとで住んでいるそうだ。室内に入り、お爺さんをソファに寝かせた。物音を聞き付けて奥から年配の女性が出てきた。ルルが母親だと紹介した。この二人が親子だと言われても俄かには信じ難い。母親は化粧っ気がなく丸々太っている。二人は何か会話をしていたが、母親が部屋の隅の電話を取り上げた。 「今夜の宿を探してる・・・プライベイトツインマー、住宅の空き部屋ね。シャワーとトイレは共用。夕食と明日の朝食を付けてくれと頼んでる。それでどう?」  私は頷いた。母親が受話器を置いた。 「ペトラの家だって。ときどき農場の労働者が泊まるのよ」  交渉がまとまったので、さっそくペトラの家に向かった。 「お母さんの友達なの、ペトラは。ソーセージはニュルンベルクで修業したから一級品よ。畑も持ってるんで野菜は新鮮だし」 「それは楽しみです」 「ホテルじゃないからベッドは固いけど」  それに続けてルルが何か言ったが聞き取れなかった。ベッドが固い他にまだ何か隠していることでもあるのだろうか。たとえ、シャワーが水しか出なくても、ベッドが固くても、一晩だけだから辛抱できる。  話しているうちにペトラの家に着いた。白い壁に三角屋根の平屋の一軒家だった。  宿の女主人ペトラが笑顔で迎えてくれた。ルルの母親と同じくらい太っている。私は二階の部屋に案内された。部屋は二段ベッドが二つとクローゼットがある四人部屋だった。さっき、ルルが何か言ったのは相部屋だということだったのかもしれない。もっとも今夜はこの部屋を私一人で占領できそうだ。シャワーとトイレの使い方を教えてもらうときにはルルが通訳してくれた。宿泊代、10ユーロを払った。日本円で1500円くらいだろうか。  ルルが二段ベッドの下段に寝そべった。二人きりの部屋で彼女はベッドに寝ている。誘っているのだろうかなどと、あれこれ想像してしまった。 「明日は九時に迎えに来る・・・お母さんを迎えに寄こそうか」 「どこかへ出かけるんですか、ルルは」 「朝は苦手なのよ」  朝は苦手・・・だけど、夜は・・・何を余計ことを考えているのか。  結局、私の思い過ごしだったようで、ルルはすぐに起き上がって帰っていった。誘われているのではなかった。  夕食までには時間あるので、私は荷物を置いてアルテハイムの町を歩いてみた。祖父の写真に写っている建物や小川の場所を探そうと思ったのだ。  宿を出て周囲を見回す。辺りには民家がポツポツとあるが店らしきものはない。宿の近くにコンビニがあれば便利だが、ここではそれは望めそうになかった。その代わりに遠くに深い森が見えた。  まずは町の入り口である城壁まで行くことにした。途中にある、元は兵舎だったという二階建ての建物を見て回った。使われていないのでどことなく寒々としている。石造りの外階段は今にも崩れ落ちそうだ。兵舎の裏手にも城壁があった。壁にはひび割れが幾つもあって、隙間に草が生えている。スマートフォンを出して城壁の写真を写した。城壁に沿って行くとトンネル構造になっていて通り抜けができた。トンネルの中は昼間でも暗く寒かった。  町の入り口に出た。先ほどは気が付かなかったが、商店のあるところは円形の広場になっていた。写真を出して見比べると確かに似ている。だが、町の中心にしては人通りは皆無だ。私は広場の写真も撮った。  今度は宿から見えた森の方へと歩いた。森に入れば、写真にあった小川があるのではないかと思った。歩き出して分ったが、目指す森まではかなり距離がありそうだった。段々と木が茂ってきた。木の間から弱々しい陽が射しこんでいる。小川はなさそうだと諦めかけたとき、右手の方向にキラリと光るものがあった。水面に陽が反射しているようだ。川かもしれないと急いで行ってみるとそこは池だった。小川の写った写真を取り出した。ここが同じ場所だったとしても、写真が撮られたときよりも遥かに木々が生長しているようだ。五十年以上は経過しているのだから無理もないことだ。  スマートフォンで周辺の写真を撮っていると急に陽が陰り、さらに霧が出てきた。  池を畔に細い道があった。遊歩道だろうが、下草やツタが茂って靴に絡まりそうだ。古そうなベンチがあった。座席の板が腐って朽ちかけている。遊歩道もベンチも荒れ放題であまり整備されていない。ベンチの脇に何か落ちていた。女性物のストールのようだが、随分前に捨てられたとみえて泥だらけで地面にへばりついていた。 「・・・」  人声が聞こえたような気がして立ち止まった。  誰かいる。  周囲を見回したが人影はなかった。空耳だったかもしれない。  そのとき、池の水面が波立った。風もないのに波が立っている。それだけでなく、水面が盛り上がってくるようにも思えた。私は不安になってゆっくり後ろへ下がった。  太い木に寄りかかって息を整えた。初めての土地でいささかナーバスになっているのだ。考えてみれば、池の水が溢れるなどということはありえない話だ。  探索はそこまでにして宿へ帰った。散歩中、町の人を見かけたのは三人だけで、みな老人だった。若い人の姿はなかった。たぶん、若者はナーゴルトやシュツットガルトに働きに出ているのだろう。ルルのような若い女性がいるのが奇跡的だ。  夕食のとき女主人のペトラにも写真を見せた。ペトラは宿を経営しているだけあって片言の英語は理解できる。彼女は写真をしげしげと見ていたが、何も思い当たるものはなさそうだった。  その夜、ベッドに入るとルルの匂いがした。  翌日、ルルの家を訪ねた。バウハウス様式の室内は建てられてからかなり年月が経過していた。白かったと思われる壁は灰色にくすみ、天上には黒い染みがある。床は板張りで、壁の一部は腰の高さまでタイルが貼られていた。窓は大きく開放的で部屋の中は明るい。  私は居間兼食堂といった部屋に通された。一枚板のテーブルは存在感があり、食器棚も使い込んで黒光りしていた。  ルルは花柄のワンピースを着ている。髪をポニーテールに結い上げ、うっすらと化粧してる。朝は苦手と言いながら、昨日にも増してきれいだった。 「昨日は良く寝られた?」 「ベッドも柔らかったので、朝までぐっすりでした」 「二人で横になるには狭かったものね」  私はひやひやする思いだった。英語だからいいようなものの、ルルは母親の前で際どい話をした。  お爺さんはクラウスという名前だった。  さっそく本題に入る。私は五枚の写真をテーブルに広げた。城壁、広場、低い棟続きの家の写真、それに建築中の家と小川の写真である。クラウスお爺さんは顔を近づけて一枚づつ丹念に見ていた。ルルが城壁と広場の写真を示して訊くと、お爺さんは大きく頷いた。 「この二枚、城壁と広場はアルテハイムで間違いない、そう言ってる」 「やっぱり。そうすると、私の祖父はアルテハイムで生まれ育ったのかもしれません。あるいは、旅で訪れたという可能性もあります」  これで祖父がアルテハイムと関係があることが確実になった。ただ、生まれ故郷なのかどうかは分からない。 「工事中の家はどうですか」  クラウスお爺さんは建築中の家の写真を食い入るように見ていたが、突然、何かを思い出したかのように室内を指差した。 「えっ、なに・・・本当!」  ルルも興奮気味だ。 「この写真、土台だけしか写ってないけど、この家よ、この家なんだって」  私は家の中を見渡した。私が持ってきた写真に写っていたのは、この家、ルルのお爺さんの家だったのだ。できれば外へ飛び出して建物の外観を確認したいくらいだ。  お爺さんが早口で喋るのをルルが英語に通訳した。  それによると、この家を建てたのは、バウハウスを主催したグロピウスの弟子にあたる人物だった。工事は1939年に始まり、翌年に完成した。およそ八十年前のことである。お爺さんが七、八歳ごろだった。家が建てられるのを毎日眺めていたから間違いないとのことだ。  偶然とはいえ、私は感激していた。  そうなると、この写真を撮った人物が誰だったのかが気になる。 「この写真を写した人には心当たりはありませんか。誰だったか分かれば、祖父が写真を持っていた手掛かりになると思うんです」  私が訊ねるとお爺さんは腕を組んで考えている。 「お爺さんは分からないって」  通訳したルルも残念そうだ。古いことだから記憶が薄れてしまったのは致し方ない。それに、撮影者は誰もいないときに写したのではないか。家の前に工事の人に姿が見えないのがそれを物語っている。私の祖父が撮った可能性もあるが、祖父のカルロスは1928年生まれだから当時はまだ子供だった。旧式の二眼レフカメラを使いこなせる年齢ではない。  私はその写真のコピーをお爺さんにプレゼントした。  小川の写真はどうだろうか。お爺さんは私から写真を受け取って見ていたが、急にその手が震え出した。  ルルが心配そうにのぞき込む。 「どうしたの、お爺さん」  お爺さんはソファーに深々と座った。というよりは倒れ込んだ。 「この場所は・・・呪われている!」  通訳しているルルの声が裏返った。お爺さんは手の震えはますます激しくなる。  ルルが顔を私に向けた。 「この池で二人死んだんですって。お爺さんがそう言うの。二人・・・」  私は昨日、この池だと思われる辺りに行った。  カメラを構えている最中に暗くなり霧が出た。泥まみれのストールが落ちていたり、人声らしきものも聞いたのだった。そして、池の水が逆流してくるような気配がして、急いで立ち去った。あの池で二人が死んだというのだ。深みに嵌って溺れたのだろうか。まさかとは思うが、死者が私を池に引きずり込もうとしたのではないだろうか。  お爺さんの震えが止まらないのでルルがビールを持ってきた。薬よりは黒ビールの方が効き目がある。お爺さんは黒ビールを半分ほど飲み、それから、この池で起きた悲劇的な事件を話し始めた。  それは、貧しい兵士が愛人を殺し、自らも溺れて死んだというものだった。  ルルが通訳となって私にも分かるように聞かせてくれた。 「これからお話しすることは、わしが生まれる前の出来事だ。二年か、三年ぐらい前のことだろう。なにしろ、ずっと以前に人から聞いた話だから、細かい部分となると記憶が確かではない」  お爺さんはそう前置きして本題に入った。 「この町にヴォツェックという兵士がいた。あの頃はみな貧しい暮らしだったが、ヴォツェックもご多分に漏れず貧乏していた。毎朝、上官の髭を剃っていたそうだ・・・」
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