「小説 ヴォツェック」
ヴォツェックー3
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 **(wozzeck 3)**  ◆  夫のヴォツェックは給料を欠かさず渡してくれていた。陰気で面白みのない夫だが、家にはきちんと金を入れていた。大尉の髭を剃ったり、医者からも得体の知れぬ金銭を受け取っていたようだ。それなのに・・・軍楽隊の鼓笛隊長に身を任せてしまった。  マリーはロウソクの明りで聖書を開いた。 『<・・・その中に虚偽はなかった。パリサイ人は姦通した女を連れてきた。だが、イエスは言った。お前を罰することはしない。行きなさい、二度と罪を犯さないように>』  傍らにいる子供がおもちゃの人形を振り回した。 『この子の視線が私の胸に突き刺さる。あっちへ行きなさい。ううん、側にいるのよ、いい子だから・・・<昔、昔、一人の孤児がいました。身よりがなく、お腹を空かせて泣いていました、昼も夜も。身よりがなく、泣いていました>』  ロウソクの火が消えそうになった。すきま風が吹き込んでくる。思い付いて聖書の頁をめくった。 『昨日も一昨日もフランツは来なかった。どうしたのかしら・・・マグダラのマリアについて、何て書いてあったっけ。<女はイエスの足元に近寄り、その足を涙で濡らし、キスをして香油を塗った> ああ、私にも憐れみを』  聖書を閉じるとロウソクが消えた。  ◆  町の広場で十人ほどの子供が遊んでいた。男の子は木の棒に馬の頭部を付けた竹馬に跨って走り回り、女の子は木陰でお店屋さんごっこをしていた。  十歳になるゲーテは一番下の弟カールを毛布でくるんで抱いていた。カールはまだ一歳になったばかりだった。父親が学校の先生なので、ゲーテは親に習って近所の子供をよく見ていた。ゲーテはマリーの子供にもそれとなく注意を払っていた。マリーの子供、三歳になる男の子は竹馬に乗った子を追い回していた。昼過ぎ、母親のマリーが子供を預けにきた。今日は父親が珍しく顔を出したので出かけると言っていた。  何度同じ道を行き来するのだろう。マリーはいいかげん帰りたくなった。だが、ヴォツェックが指先に力を込めて放そうとしない。ヴォツェックはあきらかに異常だった。額に殴られたような傷跡があった。目はあらぬ方向を見て、視線を合わせようとしない。猫背がひどく、緊張して固く体に鉄の棒が入っているかのようだ。  林の中へ入った。ブナやマツ、それにトウヒの木が生い茂り、昼間でも薄暗い。誰かが言っていた、この林のトウヒはクリスマスツリーにするには大きくなり過ぎていると。しかし、今はそれどころではなかった。  細い道が池の周囲を巡るように続いていた。歩くと枯葉の音がカサカサとした。陽が傾いて霧が出てきた。子供のことが心配になった。近所の子供と遊んでいるうちはいいのだが、迎えに行くのが遅くなるとあの子が心細く思うことだろう。 『町は左よ、早く帰りましょう』 『マリー、ここへ座れ』  朽ちたベンチを指した。 『もう、歩かなくていいんだ、ここにいろ。静かな場所だ・・・暗いな』  ヴォツェックが手のひらで頬を撫でる。ゾクッとして震えがきた。肩に掛けたストールを胸元にしっかり合わせた。 『知り合ってどのくらいになる?』 『精霊降誕祭で三年』 『いつまで続くんだろうな』 『私、行かないと』 『怖いのか、マリー。お前は善良で貞節だよな。紅い唇だ。お前の唇にキスできるのなら天国の祝福もいらない。でも、それはできない・・・震えているのか』  そう言ってヴォツェックは地面の一点を見つめ黙ってしまった。 『夜の霧が・・・』 『霧が降りても冷たい人間には寒くないだろう』 『何を言ってるの、いったい』  どこかで枝の折れる音がした。それだけでマリーはドキリとした。ヴォツェックの気を逸らそうと空を指差した。 『月が真っ赤だわ』 『ああ、血だらけのナイフのような月だ』  ヴォツェックはナイフを取り出した。  貧乏をしたくないから、そう思って、大尉の髭を剃った。医者の実験に付き合って豆ばかり食わされた。給料は全部渡した。それなのに、マリーは鼓笛隊長と深い仲になった。  全てを解決できるのはナイフだけだ・・・ 『何を震えているの、どうしたの』 『何もしないよ、俺も、他の誰かも、もう何もできない』  ヴォツェックはマリーの喉元にナイフをあてがった。 『助けて』  マリーがベンチの後ろに倒れ込んだ。 『・・・死んだ』  ◆  ヴォツェックはその足で酒場に駆け込んだ。  いつものように酒場は客でいっぱいだった。ヴァイオリンとアコーディオンに、それに鍵盤楽器が加わった楽団がテンポの速い音楽を演奏し続けている。 『踊れ、踊れ、悪魔が来ても踊っていろ・・・』  ヴォツェックはマルグレートの姿を見つけた。 『ここへ来い、マルグレート。お前は炎のように熱い女だ。それも、もうじき冷たくなるだろうよ。どうだ、歌ってくれ』  鍵盤楽器が隣り合った鍵盤を鳴らした。その不気味な不協和音に合わせてマルグレートが声を張り上げた。 『~長いドレスはいらない、ドレスもヒール靴も、召使いには似合わない~』 『靴なんかいらん、地獄へは裸足でもいけるんだ。今夜は暴れてもいいか』  マルグレートが異変に気付いた。ヴォツェックの右手が赤く汚れている。 『その手は・・・真っ赤じゃない、血だわ』 『血、血、ああ、右手を切ったんだ』 『肘にも血が付いている』  二人、三人と集まってきた。ヴォツェックが手を動かして血を拭く動作をした。 『拭いた、こうして拭いた』 『右手で右腕を?』 『人の血よ、何をしたのヴォツェック』 『お前たちには関係ない。人殺しとでも言うのか』  酒場の客に責めたてられヴォツェックは転がるように外へ飛び出した。  ◆  月明りを頼りにかろうじて池の畔にたどり着いた。  ナイフだ、ナイフはどこへいった。  ヴォツェックは這いつくばってナイフを探した。 『ナイフはどこだ、どこへ置き忘れたんだ。もっと近くか。何かが動いている、いや、みんな死んだ。あいつらが叫んでる。<人殺し、人殺し>。違った、自分の声だ』  マリーはどこにいったのだろう。 『ストールは、マリーの首に巻いたはずだった。イヤリングと同じように罪を犯して手に入れたのか。マリー、髪が乱れてるじゃないか』  赤い月に照らされて何かが光った。その辺りの池の水面が揺れている。 『あった、ナイフだ・・・早くしないと、水に沈んでしまう。月が俺の罪を暴くかもしれない。血のような真っ赤な月が見ている』  ヴォツェックは片足を池の中へ踏み込んだ。ズルリと滑って両足が埋まった。 『水辺に近すぎるな、ここでは誰かに見つかってしまう。ナイフ・・・血を洗わないと。ダメだ、どこもかしこも血だらけだ。血の池だ』  池の水は真っ赤だった。霧が出てきた。池の水面が波立ち、盛り上がってくるような気がした。このままでは水に飲みこまれる。  ヴォツェックはまた一歩、また一歩、池の中へと足を踏み出した。腰まで水に浸かった。そこで深みに足を突っ込んだ。水中に前のめりに倒れ込む。濁った水底に見えるのは落としたナイフか、それとも、マリーの瞳か・・・  ◆  大尉と医者の二人は下級士官の家から帰る途中、林の中を歩いていた。ここは兵舎に戻るには近道である。霧が出てきた、ときおり鳥の鳴き声も聞こえている。  医者が立ち止まった。大尉もつられて足を止めた。  鳥の鳴き声ではない何かの音がした。 『待って』 『聞こえますか、あの辺りだ』  医者がステッキで音がした方向を指した。池に棲む魚が撥ねたような音だ。続いてボコボコと沈んでいく音もした。 『音がしました。池の水です。水が誘うんです、このところ溺死者がいませんからな。やぶ医者殿』 『誰かが溺れているんじゃないですか、大尉殿。呻き声がします』 『赤い月に鬱陶しい霧。不気味だ。まだ聞こえますか』 『いや、大尉殿、声がしなくなった』 『先を急ぎましょう』  不安に駆られた二人はそそくさとその場を立ち去った。  ◆  一夜明けて、町の広場では今日も子供たちが遊んでいた。いつもと変わらぬ光景だが、一つだけ異なっていたことがある。昨夜、マリーは男の子の迎えに来なかった。心配したゲーテは家に連れて帰った。母親が食事を与えて自分の子供と一緒に寝かせた。ゲーテは朝になってマリーの家に行ってみたが、まだ帰ってはいなかった。  何も知らない子供たちは竹馬に跨ったり、追いかけっこで遊んでいた。 『回る、回るバラの花、回る、回るバラの花・・・』  そこへ一人の子が駆け込んできた。 『ゲーテ、マリーが』  やはり何かあったのだろうか、誰もが顔を見合わせて足を止めた。その子がマリーの子供に近づいた。 『知らないの? みんな見に行ってるよ。お前のママは死んだんだって』  マリーの子供は右手に掴んだ竹馬を放そうとしない。 『どこにいるの?』  ゲーテが訊いた。 『池の側だってさ』  みんなが一斉に駆け出した。ゲーテはカールを抱いているので走れない。おっかなびっくり振り返った。 『ホップ、ホップ、ホップ』  マリーの子供は竹馬に跨ってぐるぐる回り続けていた。 『ホップ、ホップ、ホップ、ホップ・・・』  ◆
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