俺は他の話題にしたいと思いつつ、本当は誰かに思いきり母さんのことを話したくてたまらない自分がいるのに気づいた。 母さんがいなくなって、どうしてこんな悲しい思いをしなきゃならないんだと胸が苦しかった。 気持ちが沈んでいるのに人の気も知らないで、当たり前に日々を過ごす人々が、世界が憎たらしいとさえ思った。 もしかすると俺は、悲しみを受け入れるより、何かのせいにして楽になろうともがいていたのかもしれない。 それからの俺は一方的に母さんとの想い出を香純に語った。 体が弱かったこと。料理が上手だったこと。 掃除が上手でまるで魔法使いみたいだったこと。 叱り方がとても上手だったこと。 優しい人間に育ってほしいと願って優と名づけてくれたこと。 見ているこっちが恥ずかしくなるくらい父さんと仲がよかったこと。 俺だけじゃなく、同級生や近所の子たちにも優しく厳しかったこと。 笑顔がとても素敵だったこと。 そして、自分がもう助からない病気になっても決して折れない強い心で俺と父さんを愛し続けてくれ たこと。 語り終えた俺は、まるで毒気を抜かれたようにここ数日滅入っていた気持ちが晴れ、胸にぽっかり空いた穴がなくなった感じがしていた。 笑ったり、悲しそうに唇を歪めたり、同調して頷いてずっと話を聞いてくれた香純は話が終わると目尻に溜まった涙を拭きとって微笑んだ。 「優くんは幸せだね」 香純の言葉に沈んでいた気持ちがふわりと浮きあがるのを感じる。 確かに母さんはもういないけれど、俺たちのために遺してくれたものがたくさんあるし、何より想い出の中で今も生き続けている。 そんな素晴らしい母親の息子に産まれた俺は確かに幸せ者だ。 「香純にそう言われると、本当にそう思えてきた」 「よかった。きっとお母さんも自分の子供が優くんで幸せだったと思うよ」 「だといいな」 そう答え、香純は心の成長が早いなと思った。 よく女の子の方が精神的に成熟するのが早いと言われているけれど、その差をまざまざと実感させられた気がする。 話が一段落すると、陽が傾きはじめたのを見た香純が残念そうに溜息をついた。 「そろそろ帰らなくちゃ」 「暗くなる前に帰った方がいいね。送ろうか?」 「ありがとう。でも近いから大丈夫」 「そっか」 送っていく道すがら会話を楽しもうと思った俺はがっかりしたが、それ以上言わないでおいた。 「優くん、また明日ここに来る?」 ふいの誘いに俺は喜んで何度も頷いた。今日は俺のことばかり話してしまったので、まだ香純のことをほとんど何も知らない。 「来るよ。明日は香純の話をたくさん聞かせてほしい」 「ふふ。じゃあ、放課後ここで待ち合わせね」 連絡先を訊こうとしていた俺は機先を奪われ、言われるがまま頷いた。 「わかった。放課後すぐに来る」 約束できたのが嬉しかったらしく、香純はまた頬を染めた。 「じゃあ、また明日」 「うん、また明日ね」 そう言って俺たちは手を振って別れた。 家に帰ると、八重婆ちゃんが『何かいいことあったのかい?』と訊いてきたが、桜が綺麗だった、と言って香純のことは話さなかった。 これが香純との出逢いで、俺の心を癒してくれた彼女と俺は桜の季節が終わるまで、雨の日以外は一緒に過ごした。 母さんとの想い出話にはじまり、入学したばかりの高校でどの部活動に入ろうか悩んでいることや、義務教育と違って赤点制度と落第がある不安なんかを語り合った。 一度連絡先を交換したくて訊いてみたが、意外にも香純はスマホもガラケーも持っていなかった。 聞けば、親が持つのを許してくれないらしいが、高校に入学したら考えると約束しているので、そろそろ手に入るかもしれないとのことだった。 初めはがっかりした俺だったが、香純が『携帯電話が手に入ったら連絡先を交換しよう』と笑顔で言ってくれたので大きく頷いた。 自分の連絡先を手渡すのも一瞬頭をよぎったが、あまり押しつけがましいのもよくないし、何よりガツガツしてそうで引かれてしまうのを恐れた俺はこれ以上詮索せず、話題を変えて再び楽しい会話を続け、夕暮れになると『また明日』と言い合って別れた。 そして桜の季節が終わると、香純は自分の街へと帰って行った。 と言っても見送りができた訳じゃなく、いつも通り約束の桜の木の下で『また明日』が『また来年』になるだけの違いだったけれど。 それから俺は来年の桜の季節が来るのを楽しみに待つようになった。 桜が咲くのも楽しみだが、それ以上に香純に逢えるのが楽しみでたまらない。 家族以外で素の自分を出せる初めての人が香純だったのは、とても幸せなことだと思っている。 やっぱりどこかのお嬢様なのか、おっちょこちょいで世間とズレた感覚を持っているけれど、そこがまた魅力を感じさせる。 出逢いが突然だったように、不思議な雰囲気を持つ香純を想うと胸の奥がきゅっと締めつけられる。 きゅっ、って何だろうと自問しても答えは得られない。 それでも心地よくて、ちくちくした痛みがある胸の感覚を来年まで忘れてはいけないと強く思った。 来年も必ず同じ場所で逢える確証はないけれど、それでも香純はきっと来てくれると俺は信じている。ただの口約束だけれど、香純は来るという確信が俺の胸に強く兆した。 そして俺が感じている胸の奥のきゅっ、が香純も同じように感じていてくれたらと思うと顔がほてってくる。 香純。 俺、待ってるから。 来年も桜の木の下でまた逢おう。きっと、だよ。
コメントはまだありません