花吹雪
第一章 桜の季節 8

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 駅前の商店街を抜けて自宅のマンションに帰ると、八重やえ婆ちゃんが夕飯の支度をしていた。 「おかえり、ゆうくん」 「ただいま」 「今夜はライスカレーだよ」 「婆ちゃん、いつもありがとう」  台所に立つ八重婆ちゃんはにこにこ顔で、大きな鍋の中でぐつぐつ煮立つカレーをお玉でかきまぜた。 「お父さんは遅くなるって、さっき連絡があったよ」 「うん。この時期は特に忙しいからね」 「そうかい。樹のお医者さんも大変だねえ」  八重婆ちゃんは感心した様子で頷いた。  父さんは都内の小さな造園会社ぞうえんがいしゃで職人として働いている。  さらに樹木医じゅもくいの資格を持つ父さんは大きな日本庭園から庭付きの個人宅まで、あらゆる植物の健康状態をるスペシャリストでもある。  小さい会社でも春のこの時期は仕事の依頼が殺到し、休日を取るのもままならないほど忙しい。  その合間を縫って、父さんが勤める造園会社は桜祭りを行う実行委員会から川沿いと公園の桜の状態を診るのを毎年依頼されるので、いつだったか、猫の手をかりたいぐらいだと父さんは笑って言っていた。  まだ父さんと八重婆ちゃんには話していないが、俺は樹木医じゅもくいの資格を取れる大学に進もうと決めていた。正確には試験を受けた後、ライセンスの取得までは一年の実務経験が必要になるが、試験さえパスできれば実務はうまくできそうな自信がある。  都会で生まれ育った俺は、幼い頃によく父さんについて公園や庭園に遊びに行き、草花に樹木、それに昆虫とふれあって育った。  自然とふれあって育つ内に、気づいた時には将来は父さんと同じ道か、何かしら自然に関わる仕事にこうと考えた上での決断だ。  受験勉強は高校入学と同時に始まっていると言うのもわかる。  部活で一緒になった特別進学コースの友達から聞いた話だと、早い人は入学前から受験勉強をはじめているし、塾に通ったり、家庭教師を雇ったりとそれぞれ先を見据えて計画を立てているらしい。  実際、彼も部活の後は塾に通い、帰宅は夜の八時を過ぎるそうだから、俺は自分がいかにぬるま湯に浸かった生活をしているのかと思い知らされた。  あせった俺は陽菜にもその話を伝えると、文学部志望の陽菜は『確かにやっておいた方がいいかも』と言い、部活漬けでおろそかになっていた勉強に身を入れるようになった。  母さんがいた頃、父さんと二人で俺が大学卒業するまでの学費貯金をしてくれているのを立ち聞きして知っていたので、大学に行って自分の好きな勉強をしたい気持ちは強い。  うちは塾に通ったり、家庭教師を雇う余裕まではないので、夢をつかむために自力で勉学に打ち込む覚悟はある。  普通科は二年生の後半にならないと講習ははじまらないが、特別進学コースは一年生から夏期、冬期と講習が行われている。  同じ部活になったよしみで講習のプリントをコピーさせてほしいと頼むと、特進とくしんの彼は快く引き受けてくれた上、自分が通っている塾のプリントと解答までつけてくれた。  親切すぎる親切に胸を打たれた俺がお礼に困ると、彼は部活動の時になるべくそばにいて助けてほしいと言ってきた。料理は好きだが不器用なので、工程から取り残されてしまうのが不安らしい。  そんなことでいいのなら、と俺は卒業まで喜んでバックアップする約束を彼と交わした。  普通科、特進、塾の課題と春休みにやるべきことは満載まんさいだが、一問一問解く楽しみとわからない所が理解できた時の達成感にすっかり魅了された俺には楽しみの一つだ。 「婆ちゃん、夕飯の時間まで部屋で勉強するよ」 「おや、春休みなのにかい?」 「うん。学校から課題が出たんだ」 「そうかい。最近の高校生は大変なんだねえ」  八重婆ちゃんは首を振り振り『時間になったら呼びに行くよ』と言ってくれた。  返事をした俺は手洗いとうがいをすませ、和室にある仏壇の前に正座して母さんに『ただいま』と手を合わせた。

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