花吹雪
第四章 花吹雪 30

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 正座して心の中で夕飯ができたと告げると、写真の母さんは嬉しそうに微笑んだ。 「母さん」  不意に声が漏れ、誰もいないのに背後をきょろきょろと確認してから俺は母さんに向かって話しかけた。 「一度もこういう話したことなかったけどさ、好きな人ができるって苦しいことなんだね」  父さんと母さんは大学で出逢ったと言っていたけれど、恋人になった時はどんな気持ちがしたのだろう。  父さんは奥手でそれまで一度も女性と付き合った経験がない人だったと母さんは言っていた。  母さんは自分のことは話さなかったけれど、父さんの他人の幸せを自分のことのように喜べる人柄と実直な性格に心をかれたと話してくれた。  何年経っても変わらないと、恋人から夫になった父さんを愛おしそうに見つめて言うこともあった。 「母さんは父さんを好きになって胸が苦しかった? ちくちく痛むことってあった?」  写真を見つめていると遠い記憶が呼び起こされ、元気だった母さんと恋愛ドラマを見ていた時を思い出す。  主人公とヒロインの間に気持ちのすれ違いが生じ、離れ離れになってしまう場面で心の葛藤かっとうを表情に出した主人公を見た俺は母さんに訊いた。 『どうして、あんなに苦しそうな顔をするの?』  母さんは『難しいわね』と呟き、ややあってから俺の目を見て答えてくれた。 『優、これは切ないという感情よ。人間が持っている大切なものなの。いつか優にもわかる時が来るわ。忘れないようにね』  母さんは優しい声でそう言っていた。  結局すれ違った主人公とヒロインはすったもんだの末に結ばれて、めでたしめでたしとなったので母さんは目頭をおさえて喜んでいた。 「母さん。俺、今ならわかる気がする。誰かを心から好きになるのは、愛するのは、嬉しいとか幸せな気持ちと同時に苦しくも切なくもあるんだね。そういう複雑な感情を全部ひっくるめて恋なんだ」  俺の心の中で生きている母さんと対話すると、気持ちが安らぐのを感じられた。 「でもさ、自分の気持ちを伝えていいものか悩むんだ。俺の一方通行だったらどうしよう。勘違いで片想いだったらどうしようって臆病おくびょうな自分がいる。伝えたとして、ダメだったら友達にすら戻れなくて、他人より遠い存在になりそうで怖いんだ」  自分の正直な気持ちを言葉にすると、思っていた以上に怖気おじけづいている自分に気づかされる。  けれども母さんは何も答えてくれなかった。  もしかしたら、自分で乗り越えなさいとあたたかく見守ってくれているのかもしれない。 「父さんと母さんが出逢って、俺がいま抱えているような感情を乗り越えて一緒になったって想像しただけで二人のことを尊敬するよ。いつも一緒にいてくれて、大切なことを教えてくれてありがとう」  悩みを聞いてくれた母さんに向かい、もう一度正座して深く頭を垂れると俺は父さんのために風呂の準備をしておき、すっかり冷えてしまった夕飯を温めて食べた。  食事しながら見た夜のニュースでは桜の季節がもう間もなく終わりを迎えそうだと伝えていて、俺の気持ちを暗くさせた。  もうすぐ香純に逢えなくなる。  次の桜の季節まで待たなければならなくなる。  胸を締めつける切なさがより一層強くなるのを感じた。

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