花吹雪
プロローグ 3

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 青色が濃い空に白い雲がぷかぷか浮かんでいる。  この時期のやわらかい陽射ひざしが母さんは好きだと言っていた。  確かに、春が来たよ、起きる時間だよ、と冬を乗り越えた動物や植物たちに太陽が優しく呼びかけているように感じられる。そう思うと、俺も春が好きだなと思った。  川沿いまで自宅から歩いて二十分ほどかかるが、その間に感傷かんしょうひたり、入学したてで出逢ったばかりの俺を気遣い、元気づけてくれるクラスメイトたちのあたたかい心に感謝してゆっくり歩んだ。  大通りを渡って緑道りょくどうに入ると、満開に咲いた見事な桜が俺を迎えてくれる。  この緑道は都内の山手から続いているが、俺は駅前までの閑静な場所だけを散歩コースにしている。  いつもは閑静な緑道も桜の季節だけは一年で最もにぎわいをみせる。  それと言うのも、川の両端に等間隔とうかんかくに植えられた桜の木が満開に咲く様は、誰でも心を奪われるほど美しいからだ。  都内でも有数の桜の名所として知られ、毎年もよおされる桜祭りはテレビでも中継されるので、地元の町内会は出店を出したり、様々なイベントを考えて華やかな祭りを成功させようと努力している。  気分転換に散歩に出てきたのはいいが、花見客から桜を背景に写真撮影を頼まれたり、予想より多い人混みにすっかり疲れてしまった俺は、脇道に入って公園に足を向けた。  公園にも品種が異なる桜が植えられており、桃色のあざやかな花びらを優雅ゆうがに揺らしていた。  芝生広場ではレジャーシートを敷いた人たちが花見を楽しんでいて、幼い子供たちも元気に走り回って春の訪れを喜んでいる。  それでもカオス状態の川沿いよりは全然マシなので、園内を巡ってから一本の桜の古木こぼくの前に立った。  この奥にはもっと大きな桜があるが、何だか神社の御神木ごしんぼくのような感じがして近寄りがたくて、俺は幼い頃からこっちの桜の方が好きだった。父さんと母さんは俺と同じ桜が好きだけれど、八重婆ちゃんだけは御神木然とした桜の方がお気に入りらしい。  一緒に公園を訪れた時にありがたや、ありがたやとでも言うように熱心に拝んでいたから相当惚れこんでいるんだろう。 「こんにちは」  ふいに声をかけられて振り向くと、知らない女の子が立っていた。  見た目は俺と同い年くらいだろうか。  深窓しんそう令嬢れいじょうが着るような白いワンピースに薄桃色のカーディガンがよく似合っている。  目が大きくて、すらっとした鼻筋に意思の強そうな口元をしている愛らしい顔立ちの子だ。  背丈は俺より少し低くて、黒髪のロングヘアーが風にそよそよと揺らいでいる。  彼女は人懐こい笑顔でもう一度『こんにちは』と言ってきた。 「こ、こんにちは」  突然声をかけられて驚いた俺は、上擦うわずった声で挨拶あいさつを返した。  彼女は気にしない様子で隣に立って桜の木を見上げる。 「綺麗だね」 「うん」  相槌あいづちを打ちながら、クラス中の女子生徒の顔を思い浮かべたが、やはり初めて見る顔だった。  花見客も多いし、彼女はその中の一人なのかもしれない。 「あ、あの。俺、大島優おおしまゆうです」  人に名前をたずねる時はまず自分から、と母さんに言われていたのを思い出して告げると、彼女はきょとんとした顔で俺を見た。 「え、と、あの、名前―――」  今度は意味が伝わったらしく、彼女は大きな目をぱちぱちさせて口を開く。 「あ、さくら!」  と言った直後、両手で口を抑えてしまう。  張りのある大きな声だったから恥ずかしかったのかもしれないと俺は思った。 「朝倉あさくらさん、でいいのかな?」  俺がたずねると、彼女はこくこくと頷いた。 「朝倉香純あさくらかすみです。香りの香に純粋の純で香純。よろしく、優くん」  愛らしい笑顔で名前を呼ばれた俺は、何だか首のあたりがくすぐったい感じがした。 「どうして俺に声をかけたの?」  自己紹介がすみ、俺が核心にふれると香純は少し俯いて呟く。 「優くんが、悲しそうだったから」  図星ずぼしの答えに俺は言葉を失った。  そんな風に見えていたはずはない自負じふがあったし、そう見せないように背筋を伸ばし、胸を張って歩いてきたつもりだった。 「みんな桜を見て、楽しんで、喜んで、心がうきうきしてるのに、優くんの心が悲しいのはどうしてかなって思ったから声をかけたの」  香純の顔が真剣で、姑息こそくな嘘や冗談で流せないと悟った俺は正直に胸の内を吐露とろした。 「母さんが亡くなったんだ」  桜を見上げて言うと、香純は黙って聞いてくれた。 「母さん、桜が好きだったんだ」 「優しくて、心があたたかいお母さんだったんだね」 「どうして?」  そんなことがわかるのか、と不思議に思った俺が訊ねると香純は当然とばかりに微笑んだ。 「桜が好きな人は、みんな優しくて心があたたかい人ばかりだよ」 「それは、どうかなあ」  と、言って俺は芝生広場で酒に酔って腹踊りをしている花見客を指差した。  意地悪のつもりじゃないが、大きな枠組みでとらえれば香純の言葉にはあの男性も含まれる。  じっと腹踊りを見ていた香純はくすくす笑って頷いた。 「うん。優しくて心があたたかい人。前に見た時もああやってみんなを楽しませてたもの」 「前にも見たことあるの?」 「うん。毎年お花見に来るから。あの人はきちんとお花見の後片付けして帰るんだよ」  何だか嚙み合わない会話だな、と俺は内心首をひねったが、いや、出逢ったばかりでどれだけお互いを知らないんだと思い直した。  まずは、一つ一つ知っていくことが大切だ。 「香純は何年生?」 「今年高校一年になったばかり」  あ、思った通り同い年だ。ほっとした俺はさらに質問を続ける。 「俺と同い歳だね。えーと、香純の家はどこ?」 「ここ―――から遠い所。毎年、桜の季節にこっちに住んでる親戚に会いに来てるの」 「学校はどうしてるの?」 「ちゃんと行ってるよ。遠いと言っても車で行ける距離だからね」  なるほど、と俺は思った。  やっぱり香純は花見客の一人だったんだ。この近くに親戚が住んでいて、毎年お花見をするならとても楽しそうだ。 「俺も小さい頃、家族と一緒にこの公園で花見をしたことがあるよ」 「楽しかったね」 「え?」  思いがけない返答に顔を向けると、香純はこつん、と自分の頭を小突いた。 「言い間違えちゃった。優くん、楽しかった?」  何だ、そういうことか。  見た目は才色兼備さいしょくけんびのお嬢様に見えるけれど、香純はおっちょこちょいな所があるんだなと心にめた。 「うん。父さんと母さんと爺ちゃん婆ちゃんと一緒に弁当を食べて、あ、ほら、あの子たちみたいに俺も走り回ったんだ」  指差す先できゃっきゃと走り回る幼い子供たちを見て、香純が穏やかに目を細めた。 「いい想い出だね」 「うん」 「想い出の中で人は生き続けるよ」  香純の言葉が俺の追憶ついおくに拍車をかけ、元気だった母さんと過ごしたあの日が心に鮮明に映しだされた。  香純の言う通り、母さんは今も俺の心の中で生きている。  出逢ったばかりなのに大切なことに気づかせてくれた彼女をすごいなと思う。 「優くん、桜は好き?」 「好きだよ。特にお気に入りなのはこの桜」  目の前の桜を示すと、香純はなぜか頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。 「あの奥にある御神木みたいのは、これよりもっと樹齢じゅれいが古いのかな?」 「そうだよ。とっくに百年は越えてるみたい」 「百年以上か」  戦争と大震災と他の多くの災害を乗り越え、立派に成長した古木はその全てをこの場所で見守ってきたのだろうと、俺は長い時を思い巡らす。すると雨風にも病気にも負けずにこの場所に立っているのが奇蹟のように感じられた。  近づきがたい印象はまだあるが、それは畏敬いけいの念なのかもしれない。 「よかったら座って話さない?」  ちょうど空いたベンチに二人で並んで座ると、香純は母さんのことを聞きたがった。

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