わたし、百川翠には記憶というものがない。 1ヶ月前、殺風景な病室で目覚めた時に感じたことは、茹だるような虚しさだった。 起きたばかりで、視界は朦朧としている。チカチカと照明の明るさが瞳に刺さる。頭の奥が悲鳴をあげていた。 ずっと光を遮断していたおり、突然まぶたを押し上げたのだ。針のような刺激を滲みでた涙で馴染ませると、知らない顔が二つ。 それが自分の親だと知ったのは、それから2時間も経ったあとだった。 長期記憶障害。 息が詰まるような検査の後、淡々とそう告げられる。目覚めたところは病院だった。 あとから聞いた話、私は高校の帰り道に軽自動車と正面衝突を起こしたらしい。 なぎ倒された体は後方6メートルほど吹き飛び、そのまま病院に緊急搬送されたそうだ。 生きているのが不思議なくらいの事故だったらしいのだが、幸い私は無傷だったそうだ。スポーツをしていたこともあって、受け身が上手くとれていたのかもしれない、とお母さんは言っていた。 ただ当て所が悪かったらしく、ここ2月ほど昏睡状態だったらしい。 「お子さんは非常に健康です。本人の希望があれば、明日にでも退院は可能でしょう」 皺のない、小綺麗な医者の顔は実際より少し若く見える。機械的な言葉に、両親は泣いていた。大の大人が人前で号泣するのを初めてみた気がする。 ああ、記憶がないからあたりまえか。 寝疲れて酸素の行き渡ってない脳は、その時はまだ冷静で。目の前にぶら下がってる黒いメガネの縁をぼうっと眺めていた。 知らない。なにも。 事実だけが坦々と歩いて、身体はその異変に気づかない。 白で統一された室内はひどく殺風景で、なんとなくもの寂しい。まるでいままで描いたキャンバスの色を無理矢理上から塗りたくったかのように微睡んでいる。
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