再び藍が現れたのは、それから1週間ほどのことだった。 丸いガードレールの上にかわいらしく腰をおいて、こちらに手を振る。 「おはようっ」 いつもと同じ、明るい声。 あまりにもそれが自然なものだったから、翠は一瞬、反応することができなかった。 「……なんで」 「どうかした?」 戸惑いの目の翠に対して、藍の瞳は至って普通だ。小首をちょんと傾げてこちらを覗き込むような仕草はいやらしくさえうつる。 早めの夏服。ボタン一つ開いた隙間に、ビロードのような髪が白い首筋の上を滑る。 出会った時と変わらない、星空みたいな笑顔が翠の前にはあった。 これは私が間違っているのだろうか。 あの告白はぜんぶ夢で、翠の戸惑いも何もかも全部そのなかの出来事だったのだろうか。 けれど藍はここにいて、ほてり色の唇をみれば、依然しっかりとその感触は残っている。 「ごめんね、今日は一緒できないんだ。待っていたのは、ただちょっと翠の顔が見たかっただけだからさ」 ふたりの間にできた沈黙を打ち破るように、藍の笑みが消えた。なんとなく、様子がおかしな気がした。 「じゃあ、もういくね。今日は車だから」 いうや否や藍は踵を返した。 「ま、待ってよ……っ!」 と、その腕を反射的に掴む。思ったより力の入った指がぐっと彼女をその場にとどめた。 「……………なに?」 こちらを向かずにアイが応える。低いこえだった。体が一気に強ばる。それでも何か口にしなければならない気がして声を張る。 「なにって、逆にアイはなにもないの?」 「どうして? わたしはなにもないよ。今日のミドリ、変だよ」 また、その言葉――。抑揚のない返事に顔を顰める。指の力がさらに強まった。 「変にもなるよ!」 ムキになって腕を引っ張った。体は簡単にこちらを向いた。 「あんなことされて………、変に――なるよ」 昂ぶった息を沈めながら、わずかに視線を逸らす。 藍が何を考えているのかわからなかった。 今日はまだ彼女の顔をきちんと見ていない。 「――ああ、アレね」 そんな翠とは裏腹に、藍から返ってきたのは冷笑だった。顔を上げる。藍の目は怖いくらい鋭かった。睨めつけるような視線に身じろぎする。 それでもなんとか踏みとどまった。 それはここ数日得た、確かな勇気。唾液がウザったく癒着した。それでもなんとか声をだす。 「だから、話がしたい」 もっとあなたのことが知りたい。それは翠にとってはじめて他者に向けた本心だった。 けれど—— 「私は話したくない」 そんな決意は簡単に却下される。あっけなく、腕が振り解かれる。 「――――え?」 彼女が一瞬なにを言ったのかわからなかった。 「聞こえなかった? 私はミドリと話したくないっていったの。――もういいかなっ? あなたとなんて、関わりたくないの」 嘲るような瞳だった。苛立ちさえ窺える。 動けないでいる翠を前にして、藍は矢継ぎ早に口をたてた。 意味がわからなかった。藍の言葉があまりにも突拍子のないもので、ただ右から左に流れていく。 放り出された手が迷子になる。藍はわざとらいくため息を吐いて、そのまま翠の横を通り過ぎていく。 「それに――アレ、嘘だから」 別れ際、目線を合わせることなく藍はそう吐き捨てた。 遠ざかっていくその背を呆然と見つめながら、翠は立ち尽くすことしかできない。 鋭く冷たい拒絶。なんでと、当然の疑問が起きた。 けれど、目前の少女は応えてくれない。 彼女のほうから結んだ糸は、もとからひび割れていて、それを知らずに握りしめていた私はバカみたい。 心情も、まして横顔すら読み取れないまま霞がかったかのように藍はわたしの前から姿を消した。 熱ばかりもった蠟は溶けて、穴だけがぽっかりと残った。
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