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 ヘッドフォンを外して「おはよう」と挨拶すると、みっちゃんしか見ていないわたしにみっちゃんは困った目で苦笑いを浮かべた。 「こんな時間に珍しいね」  わたしはみっちゃんの向こうに居るもう一人のあの子に気付かない振りをした。  何も言わないあの子もきっと気付かない振りをしている。  わたしたちの目が合わなくなって随分と経つ。 「今日から朝練なんだよね」 「気合入ってんね」  わたしは音楽部に在籍している。近頃は文化祭の練習で余念がない。  くじ運の悪い先輩によって、今日から朝の音楽室を占領出来ることになった。清々しい朝、一日の始まりに音楽を奏でるのは心地好いから楽しみだ。  わたしは昔から歌うことが好きだった。  歌っていると言葉にしづらい色々な気持ちが形あるものに形ないまま乗り合って、果てが見えない深い空間に溶け合っていく。   頭の先からすうっと抜けていく、手の先からさらさらと放たれていく、つま先から確かな地へ根付いていく。    込み上がる何ものかもわからない眠っている想いが自分の場所を求めて解き放たれていく。   それは全て、わたしにとっての大切な感覚。  大切な人へ、大切なものへの気持ちは言葉だけでは足りないから、恵愛に混ざり合った多情多感な何もかも、形にすることが叶わない溢れうる限りを、わたしは歌声に乗せたい。  信号が青になると、自転車のふたりは先に走りだした。  わたしはヘッドフォンを耳に戻して歩き出す。

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