いつもの朝。でも世間では、バレンタインデーなどという日らしい。今の僕には無縁だったが、もしリンと電話ができていたなら、そんな話もしたのだろうか。 暗闇の朝、見上げると星の光がいくつか見える。二月にもなると、朝の冷え込みはさすがに厳しいものになっていた。 スーパーカブの前かごに新聞を詰め込み、後部の荷台にその倍以上の新聞を括り付けると、エンジンを掛ける。 この仕事を始めた頃は、こんなにも重いものを積んで運転できるのかと思っていたが、いつの間にか慣れていた。 発進してすぐ、街灯が等間隔で並ぶ車通りから、灯りがほとんど無い路地へと入る。建物から僅かに漏れてくる光と、あまり明るくはないバイクのヘッドライトを頼りに、住宅地の坂道を上り、そして大きなマンションの横を走り抜けた。 速度が生み出す身を切るような風も、間断なく押し寄せる眠気を払うまでには至らない。 右側には雑草の生えた場所、左側は緑色のフェンスが続いている。慣れた道。配達の順路は決まっている。いつも通る道。そこに、いつもは無いはずの白いワゴン車が止まっていた。 視界には入ってたのだ。しかしそれが、自分の進路を塞いでいるものだとは、認識できなかった。目が覚めた時には、もう車が目の前に迫っていた。ブレーキを掛けたが、間に合わないことはすぐに分かった。 両手で顔を覆い、ハンドルに伏せる。ヘルメットに鈍い衝撃が走った。 次に目に入ったのは、車のリアガラスが粉々に割れている光景と、車内に転がっている自分のヘルメットだった。慌ててそれを手に取る。そして自分の状況を確認してみた。スーパーカブが車の後部に突き刺さるようにめり込んでいる。 前かごの新聞がクッションになってくれたようだ。とりあえずスーパーカブを車から抜き出した。 どうするべきか。 頭が回らない。バイクの荷台にあったはずの新聞が、辺りに散乱していた。それらを拾い始めたのは、職業的使命感ではなく、とりあえず何かをしなければという気持ちによるものだった。 しかし、拾い上げた新聞はことごとく何かで濡れている。地面が濡れている気配はない。新聞を濡らしている液体が妙に黒っぽいことに気付き、そして手を見る。 左手の軍手が、大量の血を含んで重たくなっていた。 その後、同じ道を通る同僚が僕を見つけ、直ぐに店長を呼んでくれた。店に戻ったが、いつまでも出血が止まらなかったので、救急車を呼び病院へと行った。生まれて初めて乗った救急車だった。 薬指と小指の間の静脈が切れていたが、何針か縫ってもらうと、出血は止まった。店に戻ったのはもう明るくなってからだったが、店長が僕の代わりに配達をしてくれていた。 血で汚れた新聞が随分たくさんあったらしく、足りなくなった分を他の店に取りに行くはめになったようだ。それについては小言を言われたが、店長は別に怒った風もなく、僕の怪我を気にしてくれた。 数日休ませてもらった後、僕は仕事に復帰した。 手の怪我以外に目立ったものはなかったが、鏡の中の自分の顔には、細かい切り傷がいくつも付いている。咄嗟に手で顔を覆わなければ、手ではなく顔に深い傷が付いていたことだろう。 その幸運に感謝したが、しかしその事故以降、この仕事を続けていくのか真剣に悩むようになった。 二月も終わり、朝の冷たさも少し和らいできた頃、母親から白い封筒を手渡された。隅に『航空』の文字が書いてある。この封筒を貰うことにも、いつか慣れてしまうのだろうか。 いつものように部屋に戻って封筒を開ける。中に入っていたのは、いつもの軽い便箋ではなく、真っ白なしっかりとした三枚の紙だった。 ――親愛なるMへ 今日は二月の十三日。あなたの手紙を三日前に受け取ったわ。 父は、今は具合も良くなって、昨日退院しました。私のことは心配しないで。全然大丈夫だけど、前より少し痩せたかな。 この一か月、仕事でとても忙しかったわ。でも、工場にはいなかったの。 なぜって? だって、私は今、『DILO』というドイツの会社の代理店をしている会社に勤めているからよ。でも会社は西安に有って、十人ほど、マネージャーは私たちに優しいの。 これって、とても良いニュースじゃない? この会社の仕事はとても忙しいけれど、それは稼ぎが増えて、将来が明るいってこと。私は主に通訳として働いていて、でも時々、私もコンピューターを使って書類を打ったり印刷したりしてます。この仕事をとても気に入ってるし、視野が広がって、能力も磨けるのよ。 知っての通り、卒業後に勤めていた工場での以前の仕事は好きじゃなかったから、今、チャンスが来てるわね。 でも、この会社に長く務めるかどうかは分からないの。なぜなら、中国の女性にとって、安定した仕事はとても重要で、退職した後は公的な健康支援や退職金のような保障が受けられるから。 多分あなたの国では、これって分からないと思う。でも普通、中国の人は仕事選びをする時にそのことを何度も何度も考えるの。この会社だと、そういう保障が受けられなくて、勤務と給与、つまり雇用関係だけになるわね。だから、一生懸命働かなきゃいけないんだけど、それはこの仕事が好きだし、会社もすぐに大きくなると思うから。名前は『卓越』って言うのよ。 もうすぐ春節が来て、新年を祝います。でも、中国の太陰暦での二月十九日が本当の新年になるわね。あなたは前にあなたの国でも旧暦が残ってるって言ってたけど、『春節』も過ごすのかしら―― 旧暦と言っても、日本のものは形式的なものか、もしくは節句に残っているかくらいである。共通の話題として書いただけだったが、中国の人にとっては旧暦が本当に身近なものなのだろう。 リンの生活が順調のようで良かった。 そんな穏やかな雰囲気を、次の一文が吹き飛ばしてしまう。 ――国際電話で話せると思います。電話番号は―― その後ろに、0086から始まる13桁の数字とその意味、そして『月曜から金曜の昼間に』と書かれていた。 ――あなたの国際電話番号も教えてくれる?(家の電話番号もね)あと、毎日の家にいる時間と。きっといつか、その時間に電話できると思うの。いいかな? 忙しくて、写真を撮る暇がありません、ごめんなさい。多分、次の休暇には、するね。もしそうしたら、あなたに送ります。(猫のベイベイのもね) 明後日、同僚が結婚します。結婚式に出る予定よ。なんて良いんでしょう! 新年明けましておめでとう!―― 会社が変わったから寮も変わったのだろう。手紙の最後に新しい住所が書いてあり、『私の友人へ、リンより』という言葉で、手紙は結ばれていた。
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