廃線のホームで君を待つ
第17話 海を越える声

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 今日は木曜日。昼食を食べた後、川沿いの道へとせり出した桜並木のトンネルをくぐり、駅へと向かう。そして駅まで来ると、電話ボックスの前にスーパーカブを止めた。  別にこの電話ボックスでなくてもいいのだろうが、なぜかここが落ち着くのだ。ロータリーの真ん中に立っている時計は二時を指していた。  電話ボックスに入り、財布からテレフォンカードを取り出す。前回の電話の時以降、使ってはいない。それを電話に差し込むと、400という数字が表示された。  中国は今、昼の一時なのだろう。リンはもう昼食を済ませているだろうか。  英語での電話対応を確認してきた。リンに言うことも、考えてきた。何を話すかもある程度は考えている。しかし今一番望むことはといえば、リンの声を聞く、ただそれだけだった。  電話番号を押し始める。以前のような躊躇いはもうない。番号を押し終えると、数拍の空白。そして呼び出し音が鳴る。そこで少し息が苦しくなった。  呼び出し音が、止まる。 「ウェイ?」  若い女性の声がした。多分、前の時と同じ人なのだろう。  まるで溺れるような息苦しさに襲われたが、真っ白になりそうな頭を何とか現実に引き留める。『ウェイ』というのは、中国語で『もしもし』のことであり、気にせずこちらの要件を言えばいいだけのことなのだ。 「こんにちはHello」  英語でそう切り出した。ゆっくり言うつもりだったが、どうにも早口になる。言葉が自分の口から出ているようには思えなかった。  自分の名前を言った後、「李穎リー インをお願いできますか」と伝える。  英語が通じるのか半信半疑であったが、僕の言葉を聞いた女性は「はい、少しお待ちを」と言って、電話から離れたようだ。しばらくの無音が始まった。目の前では、カードの残度数表示が、何秒かに1ずつ減っていっている。  8度減ったところで、受話器の向こうに誰かの息遣いが聞こえた。 「こんにちはHello、李穎です」  忘れもしない、その透き通った音色。僕がリンと呼ぶ、その呼び名通りの凛とした声で、彼女は自分の名前を口にした。その音が、電話ボックスの中の時間を止めてしまう。  何を言うつもりだったのだろうか。考えていたはずのことが、頭の中から消えていた。 「こ、こんにちは。久しぶり。ぼ、僕はI, I'm...」  そこで言葉が出なくなった。少しの沈黙。 「ええYes知ってるわよI know  。マサでしょう? 久しぶりね、本当に」  少し笑いながら、でもとても穏やかに、リンは僕の名前を口にした。その音が電気信号に変えられ、海底ケーブルを通って日本へ、そしてこの受話器へと辿り着き、また音に戻って僕の鼓膜を震わせている。  一憶分の一でしか無かった僕が、十億分の一であるリンと西安の喫茶室で出会った、それは奇跡というべきなのだろう。お互い二千四百キロ離れた今、この狭い電話ボックスの中で、僕はもう一度リンに出会えたのだ。    そう思った時、言おうとしていた言葉を思い出した。 「うん、本当、久しぶり。君の声が聞きたくてたまらないよI'm dying to hear your voice!」  本当は『聞きたくてたまらなかったよ』とするべきだったのだろう。いや『会いたくてたまらないよ』と言った方がよかったかもしれない。  ラジオで仕入れた、洒落たフレーズ。通じるのかもわからなかったが、それを聞いたリンはフフフと笑った。 「ありがとう。とても嬉しいわ」  そう答えて、もう一度リンが笑う。でもその笑声えごえを聞くと、また何を話していいのか分からなくなった。  いや、話すことはたくさんある。しかし、何も話さなくても、こうして繋がっているということを意識できるだけで嬉しかった。その嬉しさが、ある言葉を僕に言わせようとしている。それを言わないでおこうとするが故に、言葉が出てこなくなっていたのだ。 ――君が、好きだ。  しかし、その言葉を口にすれば、もう二度とリンと話せなく……いや、手紙のやり取りすらできなくなるだろう。 ――ごめんなさい、そんなつもりはないの。  困ったような声で、そうつぶやくだろうか。いや、そんな言葉を言ってもらえるなら、まだ救いがある。  リンも、あの子の様に何も言わず、何も言わずにただ時間を流して、僕に『ごめん、迷惑だったね』と言わせようとするのだろうか。  テレフォンカードの度数が、また1度減る。それが、僕に少しだけ冷静さを取り戻させた。 「お祖父さんとお祖母さん、残念だったね」 「ありがとう。でも、大丈夫よ。あなたの方が大変だったと思う」  そこから、新しい話題というよりは手紙で話したことの確認と言った方が良いだろうか、いくつかの話をした。何度か、リンの英語が聞き取れずに「ごめん、もう一度I beg your pardon ?」という羽目になってしまったが、その度にリンは、はっきりと、そしてゆっくりと話してくれた。  それにしても、電話で話すということが、これほど難しいとは思わなかった。面と向かって、時に筆談も交えての会話とは全く違う。相手の顔が見えないから、何を考えているかは声色で聴きとるしかない。ジェスチャーが無いから、指示語が何を指しているのか頭に浮かべなくてはならない。そして、分からない単語はいちいち別の言葉で確認しなければならなかった。  結果、大した内容の話もしていないのに、カードの度数だけがまるで電話の終わりを急かすかのように減っていく。残り度数が100を切ったところで、僕は受話器を耳に当てながら、鞄から財布を取り出し、カード購入機に千円札を三枚入れた。  それでも、リンの声を聞いているだけで楽しかった。リンの声も、少し弾んでいるように聞こえたが、それはボクの誤解かもしれない。  結局、一枚目のカードの残度がゼロになり、二枚目のカードが減り始めた頃、僕たちはそろそろ電話を終えることにした。 「じゃあ、来週の木曜日、また電話してもいいかな」  さすがに毎日電話を掛けるのは、迷惑以外の何者でもない。いや、本当はそうしたかったのだが、もう一つの理由、財布の中身もそれを許してくれそうになかった。だから僕からリンにそう切り出した。 「いいわよ。待ってるわ」 「じゃあ、またね。電話、ありがとう」 「こちらこそ。ええ、またね」 「バイバイ」 「バイ」  リンの声を確かめてから、僕は受話器を置く。けたたましい電子音がしてカードが吐き出された。

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