僕は暫くの間、手紙に書かれていた電話番号を見つめていた。リンの会社の電話番号のようだ。 リンに会ったのは二年半前。そう、西安でリンと初めて出会ってから、もう二年半が経っていたのだ。 この番号の先に、リンがいる。 そう思うといてもたってもいられなかった。しかし、このワンルームの部屋には、電話はない。それに今は夜だ。 明日、店の電話を使って――そう思ったところで、ふと、あることに気が付いた。 電話代。 国際電話は、国内電話とは比べ物にならないくらいに通話料金がかかる。店の電話を使うなら、かかった電話代を後から払えばいいかもしれないが、それでは自分がいくら使ったかを管理できそうになかった。 どうする? とりあえずその日は、冴えてしまった頭を無理やり寝かしつけたが、次の日になっても、僕の頭の中は国際電話のことで一杯だった。 朝刊を配り終え店に戻ると、控え部屋で休息を取りながらラジオを付ける。畳に寝っ転がりながら、流れてくる英会話講座を聴いていたが、内容は余り頭には入ってこなかった。 店で出される朝食を食べた後、仮眠をするため、スーパーカブに乗ってマンションへと向かう。道の両脇に並ぶ桜並木の蕾はまだ硬いままで、開花の気配すら見せてはいない。頬に当たる空気には肌寒さが残っており、春というにはまだ早いように思えた。 昼前までひと眠りした後、区域を回り、少し営業を行う。大した成果は上がらなかったが、それ以上やる気にはなれなかった。 夕刊配達の時間までに何かお腹に入れておこうと、駅前のビルへ向かう。そこには大学時代からよく通っていたお好み焼き屋があった。 駅前は、人よりも車の数の方が多いように見えた。タクシーやバスがロータリーを忙しなく移動している。駅前通りの歩道の脇にスーパーカブを止め、ビルの地下へ行く階段を下りようとして、ふと、歩道にある電話ボックスが目に留まった。 よくある緑色の電話ではない。茶色のフレームで、少しスモークのかかったガラスに囲まれたものだ。ボックスの中には、グレーの電話機が置いてある。 そのボックスに書いてある文字が、僕の悩みを解決してくれた。 『国際電話』 公衆電話からでも、国際電話が掛けられるのだ。僕はボックスの中へと急ぎ入り、国際電話のかけ方、そして通話料金を確認した。 これなら、いける。 食事を早々に済ませ、仕事に戻る。夕刊配達、そして折込の作成。その後再び営業に回る。あっという間に時間が過ぎ、すぐに夜になったが、仕事の間ずっと僕の頭の中では、リンに電話する『予行演習』が繰り返されていた。 次の日の昼、空き時間に駅前の電話ボックスへ来ると、メモ書きしておいた電話番号を握り締め、ボックスの中へと入る。テレフォンカードの購入機が備え付けられていたが、それで五千円分のテレフォンカードを買った。 カードを電話機に挿入すると、500という数字がカウンターに表示される。ボタンを押そうとして、手が止まった。 リンが電話に出るのだろうか。いや、彼女は別に電話番をしているわけではない。なら、誰か別の人が電話を取るはずだ。その人は、英語が話せるのだろうか? 中国語? 僕は一旦受話器を置くと、ボックスを出た。 彼女が電話に出たらどうするか、それしか考えていなかった。彼女が出なかったら? 彼女がいなかったら? 手紙には、『平日の昼間』としか書かれていなかった。なぜリンはもう少し詳しい時間を書いてくれなかったのだろう。 そこから暫く僕は、電話ボックスを睨みながら葛藤し続けた。その間にも、一人、二人と公衆電話を使っては出ていく。 電話を掛けるのか、掛けないのか。まるでハムレットのようだ。 いや――僕に、掛けないという選択肢はない。 三人目が電話ボックスを出た後、意を決して再び中へと入った。カードを差し込み、ひとつ深呼吸をする。メモ書きを見ながら、数字が書かれたボタンを押し、最後の一つを押す手前で、一度受話器を置いた。 けたたましい電子音が鳴り、カードが吐き出される。後ろを振り返り、電話を待っている人がいないことを確認すると、もう一度カードを差し込んだ。 深呼吸。ボタンを押す度に聞こえる電子音が恨めしい。再び最後のボタンに指を置いて、そして今度はそれを押した。 何拍かの空白。そして、呼び出し音。 そのパルスの連なりが何度か繰り返された後、それが途切れた。 「ウェイ?」 その瞬間、頭が真っ白になる。 若い女性の声だ。しかし、僕の記憶にあるリンの声ではない。多分、僕はたどたどしい英語で、自分の名前と李穎という女性がいるか尋ねたのだと思う。 しかし、返ってきた言葉はほとんど理解できなかった。感謝の言葉を口にした後、僕は慌てて電話を切る。 テレフォンカードが10度、減っていた。
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