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 意識が戻って最初に感じたのは痛みだった。どこもかしこも痛いのだが、とくに脚と床に接している背が痛い。  息をすると乾いた埃と生々しい血の臭いがして、不快感から鼻にしわを寄せる。  見あげた先には割れた窓があり、黒い空にまるく蒼白い月が浮いていた。雪はやんだらしい。 「う……」  からだを起こそうとすると、痛みに声が漏れる。  すると、腹のうえで何かがぴくりと揺れた。もぞもぞと動いて、くすぐったさと痛みにまた呻く。  ひょこり、とアダンの視界に顔を出したのは『白銀の悪魔』であった。  怯え、戸惑い、それから、ほんの少しの安堵──白い顔を見ただけで、それだけの複雑な感情を読み取ることができる。  米神はもう痛まなかったが、別の意味で頭痛がした。  アダンが顔をしかめると、『白銀の悪魔』は何を思ったのか視界から消える。と、怪我をしたほうの脚をブーツのうえから触られた。 「つっ、」  痛みのあまり大きく脚を震わせると、触れていた手がぱっと離れた。  身をよじってそちらを見れば、『白銀の悪魔』がうろたえたように視線を彷徨わせている。  情けない姿に思わず笑い声をもらすと、悪魔は大きな目を幾度か瞬かせ、細い首を傾げた。邪気のない、幼子じみた仕草だ。  どうにかからだを起こしたアダンは壁へともたれかかり、改めて状況を確認する。  噛みつかれたほうの脚は無理に動かしたせいもあってか、ブーツにまで血が滲んで真っ赤になっていた。  傍らの倒れた本棚はすっかり枠組みが崩れ、かつて本だったものが山となっている。おそらく、あの下敷きになっていたところから『白銀の悪魔』がアダンを引っ張り出したのだろう。背中も痛むが、骨までは折れていないようだった。  今度はアダンの隣で身を縮めるように座っている悪魔へと視線を向ける。 「……おまえが、あそこから、助けてくれたんですか」  痩せたからだをぴくりと揺らした悪魔は、大きな目を何度か瞬かせた。 「おまえの、怪我は……」  脇腹にある傷は、こびりついた赤黒い血のしたで盛りあがった痕になっていた。激しく動いたことによって一度開いたはずだったが、すでに治りかけている。  身体能力や外見だけでなく、治癒能力も並外れているらしい。 「ああ……羨ましいことですね」  真っ白なそれは瞬きをするばかりで、言葉の意味はわからないのかもしれない。  だが、神妙なようすでアダンを見つめる瞳には知的な光があるようだった。  少なくとも、アダンに助けられたことを理解し、恩を感じるくらいの感性はあるらしい。  アダンは長く息を吐いた。  息は白く、煙のように空気へとける。それを視線だけで追いかけ、アダンは身震いした。  痛みと寒さと、身に起きた衝撃がアダンを震わせる。  これまで彼が信じてきたものがすべて、あっけなく崩れていく音がした。  アダンはずっと異形を狩って生きてきた。それが彼の仕事だからだ。  畑を荒らす猪や家畜を襲う野犬を駆除するのと同じ。  傍らにある悪魔の頭に手をのせる。  悪魔は身を固くしたが、アダンに攻撃する意思がないのだと察すると、振り払うことなく大人しくしていた。  昔、妹にしてやったようにまるい頭を撫でる。冷えた髪は艶が悪く、梳こうとすると指に引っかかった。そのうえ、かじかんだ手ではろくにちから加減もできない。髪を引っ張られて痛むだろうに、悪魔は抵抗もせず、穴でも開きそうなほどにじいっとアダンを見つめていた。  頭を撫でていた手を頬へと滑らせる。痩せた頬はやはり冷え切っているうえ、薄汚れていた。汚れを落とすように目のしたを擦ると、満月だった瞳が三日月へと形を変える。  その表情がまた、妹を思い出させた。  顔立ちが似ているわけではない。それなのに、アダンの手へ自ら顔を押しつける仕草が、安心したように緩んだ表情が、もう二度と戻らないあたたかな記憶を呼び起こす。いつも兄の後ろに隠れていた、幼い妹の体温の高さがよみがえる。  もういっそ泣いてしまいたいような気持ちになったが、泣くには体力を消耗しすぎていた。  だからアダンは、冷たく薄汚れた異形を抱き寄せるだけにした。まるで冷気を腕に閉じこめているようだったが、白いそれにはちゃんと実体があって、アダンと同じように呼吸をしている。  抱き締め返すということを知らない『白銀の悪魔』はだらりと腕を垂らしたまま、頭だけをアダンの首もとへと擦りつけた。  冷え切った薄い皮膚と骨の向こう側で、心臓がとくとくと脈打っていた。
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