悪魔のパラドクス
【3】
はらはらと細かい雪が降っている。まだ日が暮れるには早いはずだが、厚い雲に覆われた空は不穏な薄闇でもって頭上に広がっていた。
張り詰めた静寂を、アダンが雪を踏みしめる音が破る。
『白銀の悪魔』がいるという家屋は存外大きく、なるほど、取り壊しには手間がかかるだろう。
村にあるほかの住居と同様に煉瓦でできた壁は頑強そうだが、ところどころ欠けたり煤けたりしていて、もう長い間ひとの手が加わっていないことを如実に示していた。
窓は曇っていてなかを窺うことができないが、腐った木枠や硝子にはいったひびの隙間から気配を探る。
よくよく耳を澄ますと、冷えた沈黙をかすかな息遣いが揺らすのに気がつく。押し殺しきれない荒い呼吸はアダンのものではなかった。
いる。
悪魔が。
銃を構え、塗装の剥げた扉を開ける。
立てつけの悪い扉は抵抗を見せたが、勢いに任せ、ちからづくで突破する。
途端、むせかえるような埃と生々しい鉄の臭いが鼻を衝いた。
怯むことなく暗い室内に素早く目を走らせ、鉄の──いや、血の臭いのもとをたどる。
暗闇に沈む部屋の奥、置き去りにされた家財の隙間にぼんやりと浮かびあがる白いもの。
蒼白く鋭利な一対の光がアダンを捉える。
ぞう、とアダンの背筋を寒気が駆けあがった。
それが脳に届く前に放った銃弾は白いものを掠め、燭台だったものへと当たる。
チッ、と空気を裂いたのはアダンの舌打ちだ。
白いものが一瞬身を竦め、次の瞬間には脱兎のごとく走り出す。
それを追いかけて放たれた銃弾の一発が窓に当たり硝子を砕いた。
硝子の破片が落ちる間もなく、ぐるりと向きを変えた白いものがアダンのほうへと飛び掛かる。
人間離れした動きに加え、ぐわりと開けられた咥内に並んだ牙といい、明らかに異形のものだった。
濃い血の臭いとともに突撃してきたそれを銃で殴りつける。
殴られた悪魔は犬のようなひしゃげた悲鳴をあげて床へとひっくり返った。
埃まみれの床へ転がったその姿を認めたアダンは短く息を呑んだ。
構えた銃身が震え、トリガーを引くのを躊躇う。
「そ、んな」
馬鹿な、という音は気霜に転じる。
真っ白な色、人間離れした動き、獣のような唸り声。
どう考えたってこれが『白銀の悪魔』と呼ばれるものに間違いない。
だがその容姿はまるで──
「にん、げん……」
骨の形がわかるほどに痩せた手足はすらりと伸び、色素の薄い毛は長すぎる頭髪だ。
脇腹にこびりついた赤黒い血はヨゼフが負わせた傷だろう。だからやはり、これが『白銀の悪魔』なのだ。
動揺に動きをとめたアダンの隙をつき、『白銀の悪魔』が床を蹴って飛び掛かってくる。アダンは再びそれをいなし、床へと押さえつけた。
もがき暴れるちからは強かったが、何せ相手は人間の子供ほどの大きさしかない。体格差を利用すれば、訓練を積んだ狩人であるアダンならば十分動きを封じることができる。
このまま頭へ銃弾を打ちこめばすべて終わりだ。
銃口を白い頭へと押しつけると、湖面に張った氷のような瞳が揺らぐ。
そこに浮かんだ色は恐れだった。
「ぐっ、……」
トリガーにかけた指は凍ったように固まり、その癖かたかたと小刻みにからだが震える。
呼び名のとおり真白い姿に、並の人間ではかなわないちからは異形のものだ。
だが、あまりにも人間に似すぎている。
異形と呼ばれる存在は獣や虫、多くはないが鳥に似たものなど、人間とかけ離れた形態をしているものだ。異形を狩ることは、畑を荒らす猪や家畜を襲う野犬といった獣を駆除するのに近い。少なくともアダンはそういう感覚で狩人を続けてきた。
彼は数多の異形の命を狩ってきたが、当然、人間を殺したことなどないのだ。
押しつけた銃口に、硬い頭蓋の感覚が返る。
早く引き金を引くべきだ。それで全部終わるのだから。
押さえつけたこれは異形だ、化け物なのだ。
それも、人間に危害を加えたものだ。放っておけばさらに被害は広がるだろう。
だから早く、引き金を引かなければならない。
頭ではわかっていても、からだが動かない。
ヨゼフの深い傷を思い出そうとしても、見おろした先の恐怖に揺れる瞳がそれを許さなかった。
恐れを滲ませる目にずきずきと米神が痛む。
迷いに硬直したアダンの隙をつき、身をくねらせた『白銀の悪魔』が渾身のちからで脚に噛みついた。鋭い牙はブーツを易々と貫通し、アダンは反射的に悪魔を蹴飛ばして距離を置く。
再び構えた銃口の先で、くちもとを血で濡らした悪魔がアダンを睨んだ。
わずかな光源によって脇腹の傷がぬらりと赤く光る。
脚も頭も堪らなく痛んだ。心臓が脈打つたびに、ずきりと重く痛む。
長く乱れた白髪から覗く双眸に揺れる、怯えの色。
「──……、」
アダンのくちから吐息よりも儚くこぼれたのは、彼の妹の名前だった。
もうない故郷。もういない妹。
助けれらなかったあの子の目に、最期に差したのはまさにこんな色ではなかったか。
くらりと眩暈がした刹那、『白銀の悪魔』が動いた。逃げ出そうとしたのか、アダンを攻撃しようとしたのか、起きあがった痩躯がふらりとバランスを崩して背後の本棚へとぶつかる。
長らく放置されていた本棚は衝撃に耐えきれずにみしりと音を立てた。ハッとした悪魔がその場から離れようとしたが、背の高い棚がなかに詰めこまれた書籍ごと倒れるほうが早い。
このまま棚に押しつぶされたところで異形は死にやしないが、相応のダメージを受けるはずだ。弱ったところにとどめを刺せばアダンの仕事は終わる。
狩人の理性はそう告げる。
何もせず、ただ見届ければいいのだと。
それで終わりなのだと。
踏み出した脚の傷がずくりと痛む。投げ出した銃が床に落下する音が響く。
もう血の臭いはどちらのものかわからない。
痛みも、冷静な判断も本能的な警鐘も振り切って、アダンは駆けた。
無防備に晒された背に、分厚い本が鈍器となって容赦なく降り注ぐ。
腕のなかに庇った悪魔のからだは、名に冠した色に似合いの冷たさだった。
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