悪魔のパラドクス
【6】
今でもアダンはどうしてネジュを手元に置くことにしたのか、万人が納得するような答えを出すことができないでいる。
目前に迫った死に怯えるようすがあまりに人間的で、アダンのほうが殺すことに怖気づいてしまったのかもしれない。それとも、一瞬よぎった妹の面影を未練がましく追いかけているだけなのか。
ネジュと妹が似ているなどと思ったのは、結局あの雪の夜だけだ。
知れば知るほどネジュは妹には似ていなかった。好奇心旺盛で活発的なネジュと恥ずかしがりやで臆病だった妹は対照的で、浮かべる表情もまとう雰囲気も違う。
しかし、一度この腕に抱きしめた存在を放すことはできなかった。
「とりと、おはな、は、ちがう」
「ええ、そうです」
自分に言い聞かせるようにネジュが呟き、アダンは頷く。
「とりと、ネジュも、ちがう?」
「また難しいことを訊きますね、おまえは……」
アダンは空を仰いだ。吸いこまれそうな青がただただ、どこまでも広がっている。
いつかアダンとネジュが出会ったあの廃屋にも、かつてアダンが妹と暮らした土地にもつながっている青だ。
「……同じとも、違うとも言えると思いますよ」
「おなじで、ちがう?」
「ええ。鳥もおまえも、同じ生きているものです。でも、姿が違う。鳥は飛ぶけれど、おまえは地面を歩くでしょう」
「うん」
帽子の広いつばのしたで、大きな両目を瞬かせる。淡い色味の瞳は出会った日の空に浮かんでいた満月を思い出させた。
「じゃあ、アダンとネジュは、おなじ?」
虚を衝かれ、アダンは言葉を失った。からになった手のひらに、じんわりと汗が滲む。
眼下に月光の瞳。アダンとは違う虹彩の双眸は混じりけのない視線でアダンを射抜く。
「……俺と、ネジュは──……」
みっともなく声が震えてくちを閉ざす。
ふたりは違う。でもアダンはネジュに、同じであれと思っている。
なんて勝手な願い。
エマの冴えた眼差しと言葉がリフレインする。『傲慢な思考』だと彼女は言っていた。
彼女が言うように、あの冷え切った命を哀れんで救ったつもりはない。
だって、本当は自分が救われたかったのだから。
失ってしまったぬくもりの代わりをこの子に求めていたのだ。
ネジュに対し、妹と同じであれと、アダンと同じものであれと望んだ。こちらの世界へと引きずりこんだ。
これを『傲慢な思考』と呼ばずして何と呼ぶのか。
胃の腑がひっくり返りそうだった。気づかずにいれたらどれだけ楽だったろう。
澄んだ両の目に囚われたまま、アダンは続きを紡ぐことができず固まった。
そんな彼の服の裾を、不意にネジュが掴む。
「アダンもネジュも、あるくからいっしょ? でも、ちがう?」
「……どうして、違うと思ったのですか?」
頑是ない問いかけに、アダンの問いが重なる。ネジュはまた、きゅっと顔を歪めた。
「えっと、」
くん、と裾を強く引かれたアダンが屈む。そうすると、ぐっとふたりの距離が近づいた。
「アダン、おっきいから。ネジュのが、ちいちゃい」
はあ、とアダンのくちから気の抜けた声がもれる。
「……ああ、身長のこと……ですか……」
独り言のように呟き、アダンは小さく噴き出した。
「今は小さいですけど、きっとこれから伸びますよ。俺の身長など抜かしてしまうかもしれません」
「ほんと?」
「……たぶん」
普通の子供とは異なるネジュがどれほど成長するかはわからないが、肉付きのよくなったからだは以前より縦に伸びている。
ネジュはふうん、と言いながら半信半疑といったようすで首を傾げた。
「アダンとネジュ、ちがうね」
「そうですね……俺とネジュは違いますし、エマも違います」
「エマも?」
「ええ……俺は俺で、エマはエマで、ネジュはネジュです」
道に落ちた小さな欠片を拾うように、慎重な歩みでアダンが話す。
「皆違うもので、ほかのものに成り代わることはできないんです──でも、俺たちは皆生きている。同じ、生きているものでもあるんです」
「……ちがって、おなじ?」
「そうです。俺たちは皆、違って、同じ」
んー、と唸ったネジュは「むずかしい!」と言うや否や、アダンの胸へと飛びこんだ。
腕がそのまま背に回り、ぐっとしがみつく。
「そうですね、とても難しいことです」
アダンは、抱きついた拍子にネジュの頭から落ちた帽子を片手でキャッチした。
「ほら、ちゃんと帽子を被らないと。おまえは日に焼けると赤くなってしまうんですから」
「んー」
ぎゅうぎゅうと顔を押しつけるようにしがみついてくるものだから、帽子を被せることができない。アダンは苦笑をこぼしながら、ネジュをなだめるように背を撫でた。その背中はまだアダンよりずっと小さい。
異形を害があると判断するのはあくまで人間だ。それが異形であるとする決め手はその呼び方にあるとおり、人間と姿形が異なる部分にある。そして『化け物』や『悪魔』と忌み嫌い、排除するのは人間にとって都合が悪い存在だからだ。
いまだ異形には謎が多く、ネジュにいくつか尋ねてみたこともあるが明確な答えを得ることはできなかった。本人にも自分が何者なのか、どうやって生まれたのか判然としないらしい。
この先、もっとネジュが成長したらわかることもあるかもしれないが、それがほかの異形たちにも共通するとは限らない。
そんな曖昧で危ういものを人間の世界へと、自分のもとへと引きずりこんだのはアダンだ。
「さぁ、家に帰りましょう」
今度こそネジュに帽子を被せて立ちあがる。
すると、アダンの右手にネジュの手が触れて、そのままぎゅっと握った。
「あのね、エマがね、クッキーやいてくれたの」
「ネジュの好きな葡萄のクッキーですか?」
「うん。あとね、エマのすきなココアのやつ」
「そこは普通、俺の好きなものだと思うんですけどね」
「じゃあ、エマにアダンのすきなヤツつくってって、おねがいしてあげる」
「ネジュのお願いなら聞いてくれそうですね」
依頼があれば、アダンはどれだけ遠い地方であっても向かうだろう。そこに困っているひとたちがいて、己を頼るのならばそれに応えなければならない。狩人である責務と幾ばくかの義侠心によって異形を駆除する。
つないだ手をネジュがぶんぶんと振るので、アダンの腕も勢いよく揺れた。
ネジュが懐き、握るアダンの手は、異形を殺す手だ。かつてネジュを殺そうとした手だ。
そして同時に、ネジュのその白くて小さな頭を撫でた手だ。
決して、中途半端な覚悟でうぶな手を取ったわけではない。この子を守るためならいくらでも矢面に立つし、いざとなればアダン自身がけりをつけるつもりだ。
どこまでも独善的な覚悟。
そんなこと、アダンが一番解っている。
「ネジュ」
穏やかな声色で呼ぶと、「なぁに?」とアダンを仰ぐ。つばの陰で光る瞳は月光のような銀色を湛えながら、やわらかく光る。
「クッキーを食べたら、花のカタログを見てみましょうか」
「おはな?」
「ええ、うちの庭に植える花を探しましょう。ガーデニングについてはエマのほうが詳しいので、彼女も一緒に」
やったあ、と声高に喜んだネジュが足早に歩き出し、アダンも歩幅を調整しながらついていく。
つながれたままの片手はあたたかく、春の日差しを連想させた。凍てついた雪を解かす、穏やかな陽光だ。
ふたりのつないだ手の間には多くの矛盾があって、それはいつかふたりを苦しめるかもしれない。だとしても、今のアダンにはこのぬくもりを手放すことなんてできないのであった。
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