ボクオーン
その4

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 向うから真希が歩いてくる。ボクオーンは微笑みながら手を振った。 「こんにちは、真希さん、僕のことが忘れられなくなったね。僕も真希さんのことをいつも想っているんだ。今度どんな映画に出るの? 真希さんのことを映画のスクリーンで見たいな。僕も出してくれないかな。監督に紹介してくれる? 僕は素晴らしい演技で期待に応えるよ。華々しいデビューを飾るよ。僕が演出してもいいな。あぁ、そうだっけ、僕、小説を書いているんだっけね。主演は当然、真希さんだよ。僕以上に真希さんのことを愛している人はいないから、そういう人が演出した方がいいんだよ。もっと言えば監督になってあげてもいいよ。大ヒット間違いないよ」  真希はやつぎばやに話すボクオーンに圧倒された。来るんじゃなかったと少し後悔した。今日はサントリーホールでクラシックの音楽鑑賞だった。ボクオーンにクラシックが分かるはずもなく、彼女から手渡されたチケットを握ってタクシーに乗った。ちなみにボクオーンの移動手段はほとんどがタクシーである。肥えた体を動かすのが面倒だからだった。タクシーは手を伸ばせば自分の前に止まりドアを開いてくれる。下僕の一種だと考えていた。演目はバッハ時代を中心にしたバロック音楽だった。ボクオーンは演奏が始まるとたちまち目をつむりいびきをかき始めた。彼の頭が真希の肩に寄りかかってくるので彼女は身動きがとれなかった。彼女が動くとボクオーンの頭が彼女の胸から下辺りに落ちてくると思った。それは避けたいのでコンサートの始めから最後までずっと身動きがとれず、演奏より彼のいびきが気になった。やっと全ての演奏が終わり彼女は彼に「終わりましたよ」と耳元で囁いた。彼は寝ぼけて「えっ、何が?」と言った。そして頭を起こし「いい演奏だったね」と言った。 「ねぇ、今夜はホテルに泊まらない? 気持ちいいことしよう。君だってそれを望んでいるんでしょう。処女を捧げるのが僕でよかったね。その辺の糞ったれと僕は違うからね。僕は世界の中心であり王様であり僕のために全ては動いていく。君はずっと永遠に幸せだよ。映画の主演もきっと出来るさ。だって僕がついているんだもの。芸能界にだって僕の下僕はいるんだよ」  真希は肩が痛かった。それにもましてボクオーンの話が気に障った。この狂人といつまで付き合えばいいのか。もう終わりにしようか。二人はホールを出てタクシー乗り場に行った。 「あのぅ、ここで別れましょう。私たちもう会わない方がいいようです」真希はきっぱり言った。 「照れないでいいよ。暗くしてやるからさ。初めは誰でも怖いものだよ。でも僕は痛くしないからさ。僕に全部まかせて大丈夫だよ」  すると彼女は一人でタクシーに乗って行ってしまった。  ボクオーンはあっけにとられて少しその場に佇んだ。 「恥ずかしくないのに。よっぽど僕に見られるのが嫌なのかな。陰唇の形がゆがんでいるのかな。気にする必要ないのに。誰だって多少はゆがんでいるものだよ。まぁ、今日はいいか。今度こそあの子の処女を貰うよ」  ボクオーンはぶつぶつ言いながら一人でタクシーに乗って帰った。  真希はボクオーンに関する全てを消去し変更した。これで二度と彼に会わずに済むと思うと安心した。風呂に入ってリラックスし眠りについた。そして翌朝、門を後にすると「真希さん、何で帰っちゃったの?」というボクオーンの声が聞こえた。 「なんでここが分かったか、驚いているね。フェイスブックの中に入り住所を突き止めたんだよ。そういう業者がいるんだよ、知ってた? 便利な世の中だね。後をつけるなんてストーカーのやることさ。もっとスマートにいかないとね」  真希は駆け出した。大声を出そうと思った。だが大人しい彼女には出来なかった。すぐにボクオーンに追いつかれた。 「今日は一日、真希さんの傍にいるね。なんで照れるの? 恥ずかしいことなんて何もないよ」  真希は強い口調で言った。 「迷惑です。声を出しますよ。もう近づかないでください。すぐに離れてどこかへ行ってください」 「あれれ、二人は誓い合った仲じゃないですか。誓いを破ると災難に合うよ」 「誓ったりしていません。あなたの言うことは全て勝手なでたらめです」  ボクオーンはここで血迷った。真希の下半身にさわり指を滑らした。  真希は悲鳴を上げた。ボクオーンはさすがにまずいと思ってその場を立ち去った。真希はそれから彼の執拗な行動に悩まされることになった。だが愚かしい百回の求愛はあり得ない奇跡を生むものである。彼女は次第にボクオーンの狂気に慣れてきた。離れて付けていたボクオーンはやがて彼女のすぐ後ろをついてくるようになった。そしてついには隣りを歩くようになった。ボクオーンは一方的に話しつづけ彼女はそれを聞き流した。 「ねえ、ごめんね。手が勝手に動いたんだよ。外だから嫌がったんだよね。どうせ二人は結ばれるんだから予行練習みたいなものだよ。ホテルの中なら真希さんのあそこ開いていい? 陰唇を開いて膣を舐めまくるの。ラブホテルに来る人はみんなやっていることだよ。ホテルに限らず一般家庭の夫婦がみんなやっていることさ。みんなすました顔をしやがって本当はスケベなんだよ。スケベだからこの世はなかなか滅びないんだ。この苦しみに満ちたろくでもない世界は消えればいいのに。僕と真希さんだけこの世にいれば十分だ。他人は一人もいらない。あぁ、みんな死ねばいいのに。なんで生きてるの? 不細工な女は生きてても無駄だ。そういうのは遺伝子残すな。それと大家族も困ったものでね、ああいう遺伝子をばらまく輩はみんな死刑にすればいいのに。そう思うよね」  ボクオーンの愚かしい話は耳にタコができるくらいいつも一緒だった。真希は何故か自分が穢れていくように感じた。彼は影のように彼女の行く先々についてきた。彼女は自分の手には負えないように感じ警察に相談しようかと思った。でもそこまでは出来ないと思った。彼は病気であり、ショックを受けて想像もつかないような行動に出るかもしれない。彼に対して気の毒な人という気持ちを持った。ある日、彼に対して言った。 「あなたの話は分かったわ。だから私にずっとついてくるのは止めてもらえませんか。あなたのことを全否定する気持ちはありません。でも今のままでは困るんです。会える時は会います。それで勘弁してもらえますか」 「あれれ、困っているの、何でだろうね。僕と真希さんは一心同体なんだから、いつも一緒にいないと余計困るよ。ねぇ、同棲しようよ。きっちりしたいのなら結婚しようよ。真希さんにも僕にも断る理由はないからね。ねぇ、でもね、僕は最近不安なんだよ。僕はもしかしたら世界の中心じゃなくて、ただのそこいらの人間と同じじゃないかってね。そんなに思うのって何なんだろうね。真希さんと出会うまではそんなこと考えなかった。僕は絶対的な存在で宇宙は僕が永遠に生きる限り存在すると思っていた。僕が宇宙の存在を支える神なんじゃないかと思っていた。でもね、真希さんが僕をその幸せな夢から覚まそうとするんだ。真希さんを大切に思うと自己愛が傷つくんだ。僕を何もかもが相対化しようとかかってくるんだ。真希さんを愛せば愛すほど自分の存在が希薄になってくるんだ。だから僕らは一つにならなければ幸せになれない。僕らは特別な存在で必然的に結ばれなければいけないんだよ。それしかないんだ。この胸の不安をなくすにはそれ以外ないんだよ」  真希はボクオーンの心の中に初めて理性の目覚めを感じた。でも彼にとってそれは幸せなことなんだろうか。ずっと夢の世界にいる方が幸せなんじゃないかと思った。彼が自分の真実の姿を知ったとしたら、その姿に堪えられるだろうかと思った。また人格の崩壊を或いは招くほど自分のことを愛してくれるのを無下にするのもどうかと思った。その心の中にボクオーンの存在が育ち始めているのに気付いた。  ボクオーンは泣いていた。幼児的な夢が壊れかかっていた。何かしら圧倒的な真実に対する不安が彼の心を壊そうとしていた。王国が瓦解しかかっていた。薄く濁った膜を通してしか現実世界を見られなかった彼の目が開かれようとしていた。  真希はボクオーンの背中をさすりながら「分かりました。今度の日曜にお会いしましょう。だからもうストーカーのような行動は止めてもらえませんか」と言った。  ボクオーンは自分でも不思議なほど涙を流した。自分をそこいらの人間と同じだと思うことは彼には過酷すぎた。そのように思うことは彼にとって死ぬのと同様に苦しいことだった。彼は「うん、会ってください、お願いします」と言って頭を下げた。  彼の自我の崩壊は免れた。彼はいつも飲んでいる精神病薬を飲み忘れたから変なことを考えたんだと思った。真希を愛しすぎたからこの現実世界に目覚め始めたんだとは思わなかった。

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