夜の月子
シーン2

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帰りの電車の中で私は男性からもらった名刺を取り出した。 車窓からの夕焼け色に染まった名刺には黒い字で名前だけ「南雲是親」と書いてあった。 「みなみくも…?あとはなんだろう?」 有名な画家なのだろうか。 私は芸術や美術には全く疎いので有名だとしても知る筈もなかった。 「ほう、働くかい。まあ、部屋ん中ばかりいてもそんなにすることある訳じゃないからね。いいんじゃない?」 同居の彼も私の就職を歓迎してくれた。 ただ、深夜のレストランの清掃スタッフの仕事だと何故か嘘をついた。 だいぶ季節も春めいてきた。 やはり春という季節はいい。 今日もポカポカ、大好きだ。 今日は木曜日。 アルバイトの帰りは翌日の早朝になるかも、だから彼が留守の間ベッドを借りて仮眠を取ることにした。 いつになく気分はいい。 家出した頃よりかはメンタルも安定してきた。 やはりすること、働くとか肩書きみたいなのはやはり人間必要なことなのだろう。 「……ん?」 ぐっすり眠っていたが、マットレスが動いたので目が覚めた。 薄目を開けると彼が私の上にいた。 「……!」 彼は私の上で四つん這いで顔を覗いていた。 「わっ…ごめん、起きたか」 「…何っ?」 「いや、何でもない……」 と言って彼はベッドから降りた。 「………」 私はすっかり目が覚めてしまった。 結局あれは何だったのだろう。 今でも分からないままだ。 世界はすっかり新型コロナウイルスの蔓延で日本でも緊急事態宣言の施行が囁かれ始めていた。 それでも繁華街は私たち世代の若者で溢れていた。 私たち2人は心細さもあったが身内に頼ろうなどいう気持ちはお互いなかった。 夕食は近所の牛丼屋で外食するつもりだったが、彼の提案で冷凍食品を温めて食べることにした。 「今夜行くか?」 「うん」 「朝ご飯作って置いておくから、帰りにコンビニとか寄らなくていいぞ」 「分かった、ありがとう」 夜になり彼は寝てしまった。 彼もニートだが、わりと規則正しい生活を心掛けている。 そんな彼は頼もしかった。 私は暗がりの中、スマートフォンの配車のアプリでタクシーを呼んだ。 「来たか…」 私は鞄を背負い、玄関のドアを静かに閉めた。 合鍵で鍵をかけてアパート前で待機しているタクシーに乗った。 「やあ、来たね」 丁度深夜の1時に私は南雲さんの家に着いて、リビングでお茶を頂きながら今夜の仕事の段取りの説明を受けた。 「最初は着衣で立ちポーズ、座りポーズ、後半にヌードで寝ポーズなどとなります」 そう言って南雲さんはデッサンやクロッキーのヌードモデルのポーズばかりが載っている本を私に見せて解説してくれた。 私は何頁かめくって見てみた。 ははん、これなら簡単、私だけでなく誰でも出来そうだ。 それから私は南雲さんのアトリエに連れていかれた。 広めのフローリングのその部屋にはイーゼルの大きいのと小さいのが置いてあり、棚には絵の具やパレットやよく分からない画材がごちゃごちゃ雑然と置いてあった。 床や壁には色んな色の絵の具が所々こびりついていた。 そして少し油臭かった。 真っ白なシーツが張ってある清潔そうなこじんまりしたシングルベッドもある。 この上に私はヌードになって寝そべるなどするのか。 「よし、じゃあ手始めに座りポーズから入ろう」 南雲さんはそう言って木の椅子を持ってきて、私に座らせた。 「上着を脱いで、背筋を真っ直ぐこっちを見て。顔も真っ直ぐ前を向いて、そう」 私は着ていたヨットパーカーを脱いでベッドの上に置いた。 下は薄手のカットソーを着ていた。 因みにボトムスはジーンズだ。 南雲さんはイーゼルに置かれたクロッキー帳に私の座りポーズのクロッキーを描き始めた。 静かな無音の時間、鉛筆のシャッシャッという薄く乾いた音だけが部屋に響く。 夜の戸張は既に降り、周りが寝静まった中、私と南雲さんだけは夜行性の猛禽類のように活動を始めていた。 10分もなかった。 あっという間に南雲さんは私の絵を描きあげた。 「へえ……」 クロッキーの紙の中の私は私そっくりだった。 実物より美人なのでは。 大したものだ、プロだから当たり前か。 私は感心し、絵の中の自分に好感を抱いた。 そのあとは私は立ちポーズを幾つかと座りポーズのバリエーションを変えたのをした。 南雲さんはどのポーズも器用に素早く描きあげた。 「少し休憩して、それからヌードデッサンに入ります」 「はい」 一旦リビングに戻り、私たちは紅茶やお菓子を摘まんで休んだ。 壁の時計は夜中の2時になろうとしていた。 あと1時間くらいだろう、それで結構なお金がもらえる。 南雲さんは色々私に聞いてきた。 私は話せそうな事だけ話した。 今年高校を卒業して、気の優しい友達の家に居候してるとか、趣味の話など無難なものだ。 ただ、家族の話となると私の気も口も重たくなってしまい、南雲さんも察してかそういう話は一切振らなくなった。 将来の話も聞かれて困った。 成りたいものなどないし、自分という人間もよく分かってない。 ただ、楽しく生きていきたいとは言った。 休憩も終わりアトリエに戻り、私は南雲さんに背を向けてカットソーを脱ぎ始めた。 思ったより躊躇なく下着も脱いで私は生まれたままの姿になった。 南雲さんは私のヌードを見ても無言だった。 職業柄若い女性の裸は見慣れているのだろう。 まずベッドに腰掛け、座りポーズをした。 そして体を少し捻った立ちポーズ、 更にベッドの上で寝ポーズをした。 部屋にはエアコンの暖房がかかっていたので寒くはなかった。 片手で頭を支えて寝そべりながら私は南雲さんの作業を見守った。 私は自分のヌードデッサンを見せてもらった。 分かっていることだが、褒められるような体ではやっぱりないな。 でもやっぱり上手な絵だ。 不思議な仕事だ、芸術というのは。 「これは何処かで発表するんですか?」 私は興味深く南雲さんに聞いた。 「かもしれないね。今ははっきりしないけど、習作といえども作家の世界観をより知ってもらうために展示する事があります。私の回顧展とかいいかもね」 今夜の仕事は無事終わった。 私は服を着た。 茶封筒に入った今日の給与を頂いた。 「ヌードモデルは初めてとの事だけど私から見ると月子さんは素質があるかも知れないですね。あくまで私目線だけど」 と、帰り際南雲さんはそう言って私を褒めた。 素質があるとか人からそう言われることはこれまでの記憶になかったのでとても嬉しかった。 いい仕事だと思った。 私は彼が予約してくれたタクシーに乗り、家路に着いた。 薄い暁の明かりの中、同居人の彼のアパートの前でタクシーを降りた。 彼はまだ寝てるだろう。 なるべく音を立てずに鍵を開け、ドアを開いた。 やはり彼はまだ寝ていた。 テーブルに朝食が置いてあり、私は彼のそのお手製のフレンチトーストとポットのお湯でコーヒー淹れてありがたく食べた。 その一連の動作を私はほとんど無音で行った。 そして私も寝袋に入り寝た。 その日一日私と彼は部屋で思い思いに過ごしていた。 相変わらずボソボソした短い間会話が交わされ、その後は彼はテーブルでパソコン作業などした。 私はベッドで寝転がりながら音楽聞いてたりした。 南雲さんから頂いた給与の額をとりあえず彼に報告した。 でも、清掃スタッフの仕事にしては多い金額だと私は思い、幾らかサバを読んで報告した。 それはちょっと申し訳ないと思ったが、いつかちゃんと話そう。 「とりあえずいいから、自分の電子マネーに入れといたら」 と金額を聞いて彼は私に言った。 彼はやっぱり優しい。 これからもお金は入る、必要ならいつでも工面してあげよう。