かぐや姫の涙
とある患者(2)
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「ご事情は、理解しました。ですが」  デスクの上で両手を組む。我知らず、構えの姿勢を取っていたことに気付き、僕は背筋を伸ばした。 「藍田あいだ先生、守秘義務は分かっています。だけど、そこを何とか……貴方しか手掛かりがないんですっ!」  新患として僕のクリニックを訪れた男は、患者として来たのではない、と開口一番に告げると、彼が抱える特殊な事情を弁明した。紺の地味なスーツを着崩し、血色の悪い顎は尖り、目の下に隈が出来ている。初対面ながら、これが元の人相でないことは瞭然だ。 「申し訳ありません。患者さんの個人情報は、ご家族にも開示出来かねます。ましてや、貴方はまだ」 「でしたら!」  続く言葉を遮り、男は大きな音を立てて、チェアから身を乗り出した。患者の中には妄執に駆られて掴みかかってくる者もあるので、デスクの幅は広く、すぐに乗り越えて来られないようになっている。それでも、座面から尻を浮かせた男の勢いに、咄嗟に身体が逃げそうになるのを堪えた。 「ご意見だけでいいんです。先生のご意見をお聞かせいただけませんか」 「しかし」 「先生は、患者の悩みや訴えを聞くのがお仕事ですよね? でしたら、俺の話を……患者の戯言たわごとと思っていいから、せめて聞いて欲しいんです……」  男の言う通り、悩みでがんじがらめになった患者には、まずは話すことを促している。事象と感情がない交ぜになった塊は、患者自身が言葉を選び、紡ぎ出していくことによって自然と解け、思考の整理が出来るのだ。医師聞き手は、話の流れを交通整理コントロールするだけでいい。 「分かりました。ただし、診察としてお受けしますので、貴方との時間は通常の診察時間で区切らせてもらいますよ?」  現に、目の前の男は困っている。傾聴は、患者へのより添いの第一歩だ。 「はい……それで構いません」  男――但馬たじま優一ゆういちは、翳った頬を微かに緩めると、チェアにドサリと身を沈めた。 「ここを受診していた佐江田竹香は、俺の婚約者です。もっとも、婚約は、まだ口約束の段階でしたが」  但馬は、骨張った長い指を所在なく組みほどきながら、話し出した。  彼と佐江田は、会社の同僚だ。彼は28歳で営業、彼女は24歳で経理を担当している。2年前から交際を始め、半年前に婚約。来春辺りにはプロポーズを、と彼自身は考えていたという。  『寝ている間に、激しく泣いている』と、彼女の口から聞いたのは、5月24日だった。連日瞼を腫らして出社することに気づいた佐江田の先輩社員が、但馬とのトラブルを疑って探りを入れてきたことがきっかけだ。就業後、本人に直接問い詰めて、やっと聞き出した。その時点で、1週間ほど前に突如として起こり、連日続いているということ、もちろん心当たりはないことを知る。  但馬は心配し、病院での診察を勧めた。週明けに有給を取って、手始めに眼科を受診することを決めると、土曜の夜は彼女の部屋に泊まった。何事もなく就寝して――明け方、彼女に異変が現れた。 「『やっと来てくれる』『かえりたい』。号泣の中から聞き取れた言葉は、この2つです」  佐江田が僕に語った内容が、電子カルテに残っている。但馬の話は一致した。
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