かぐや姫の涙
とある患者(3)
3回目の受診時に、佐江田は彼氏から聞かされた「寝言」について打ち明けた。
この診察室に少し慣れたのか、彼女はソファに腰掛け、置いてあったチョコレートブラウンのクッションを膝の上に抱えていた。
「誰かに、置き去りにされた経験はありませんか? または、迷子になって、酷く不安な思いをされたことは?」
「先生……私、親を知らないんです」
クッションに、指先が食い込んでいる。僕の問いに、酷く動揺している。
「それは……亡くされたのですか」
家族――とりわけ親子関係は、デリケートな部分だ。そして、核心に迫る手掛かりが潜んでいることが多々ある、心の隠蔽領域だ。言葉を慎重に選んだが、彼女は青ざめていた。
「いいえ。何も分からないんです」
「覚えていらっしゃらない?」
彼女のケースも、この辺りにヒントがあるか。睡眠は、覚醒時に掛けている規制を解くことがある。自己防衛のために無意識が押し込めている記憶や感情が、睡眠中に緩んだ蓋の隙間から溢れて、瞼を腫らす。十分に考えられることだ。
「『コウノトリのポスト』ってご存知ですか。私、生後半月ほどで、あのポストに預けられていたそうです」
俯いた佐江田は、クッションの端を握り締めたまま、口を開いた。
「コウノトリのポスト」――通称「赤ちゃんポスト」とは、何らかの事情があって我が子を育てられなくなった親が、匿名で赤子を預け置く施設のことだ。命を救うという使命感の元にカトリック系の病院が運営している。育児放棄や安易な妊娠を助長する――そんな批判の声もあるが、ここがなければ産み捨てられ、遺棄された命はもっと多かったろう。
「ご両親の手掛かりは」
「金属のプレートが1枚だけ、服の間に入っていたそうです。何の手掛かりにもなりませんでしたが」
声は微かに震えているが、彼女は気丈に答える。
「貴女が、その事実を知ったのは、いつですか」
「中学生になってからです。『いつか分かることだから』と、里親の母が教えてくれました」
「聞いて、どう思われました?」
「ショックでした。思春期でしたし……」
「置き去りにされた、という感覚はありますか」
「いえ、もう今は。実の親とは縁がなかったのだと思っています」
答えに淀みがない。意識レベルでは、確かに割り切っているのだろう。
「育てのご両親との関係は、如何です?」
「はい……良好でした」
「過去形ですか」
「3年前に、交通事故で亡くなりましたので」
過去と現在で、関係性が変化したわけではなかった。安易な見当は、悉く外れる。
「『やっと来てくれる』『かえりたい』――この言葉は、お亡くなりになったご両親と関係があると思われますか」
「いいえ。就職後は実家を出ましたけど、電車で30分しか離れてませんから」
「ご実家は、今は」
「姉が住んでます。もちろん、私と血の繋がりはありません」
「お姉様との仲は」
「普通です。私がポストの子どもだと知っても、普通で。冗談も言い合いますし、ケンカもします」
普通。特段問題と思わないところに葛藤が潜んでいることもあるのだが。
PC画面下のデジタル時計で、診察時間の終了が近いことを確認する。今日のところは、ここまでか。踏み込んだ内面に対するケアに入ろうとした時だ。
「先生、仮に亡くなった両親が会いに来てくれるということはあるかもしれません。でも、かえりたい場所なんて、私には無いんです」
彼女は、引いた血の気が戻らない白い顔を上げると、きっぱりと言い切った。
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