かぐや姫の涙
とある患者(1)
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 その患者のことは、記憶に新しい。電子カルテの記録では、初診はおよそ3ヶ月前。6月21日の金曜日、午後6時の来院で、その日最後の外来患者だった。 「宮越さんの紹介でしたか」 「はい」  僕のデスクの斜め向かいには、2人がけのベージュのソファと大きめのチェアがある。患者に余計な緊張を与えないように、決して真正面から対峙することはない。ただし、表情を観察出来るように、鈍角120度の位置で向き合うように配置している。  入室後「どちらでも」と勧めると、彼女はチェアに腰掛けた。 「それで、どうされましたか」 「はい……私、泣いてるんです」  医大時代の同期、宮越が産業医として勤務している木村コーポレーションの従業員だという佐江田さえだ竹香さやかは、艶のよい黒髪の間から色白の顔を上げた。和風の顔立ちに、赤縁の細身の眼鏡はあまり似合っていない。コンタクトの方が美人だろうと思った。 「泣いている」 「はい」  こういう謎かけのような話し方をする患者は珍しくない。ここは内科や外科と違い、心の問題を抱えた人々が訪れるメンタルクリニックだ。いきなり問題の本質を突きつけてくる患者の方が少ないのだ。 「朝起きると、酷く泣いてるんです。いえ、泣いた後で……涙は止まっているんですが、瞼がパンパンに腫れているんです」  視線を泳がせつつ、こちらの反応をチラチラと窺ってくる。自分の問いをどのように受け止めるのか、これは一種の試験だ。患者の期待通りの反応を返さなければ、一度切りの来院で終わることもある。 「それは、困りますね」 「そうなんです。ネットで腫れを引かす方法を調べて、毎朝冷却マスクで対処しているんですけど、どうして泣いてるのか分からなくて」 「毎朝なんですか?」 「はい、もうひと月くらい続いてます」 「それは……お辛いでしょう」  頷くと、頬に溢れた胸までの髪を耳にかけ、真っ直ぐに向き直る。今は腫れていない切れ長の瞳に、強い光が見えた。 「分かっていただけますか、先生」  どうやら僕の対応は、彼女の期待に応えたらしい。  それから彼女は、眼科も内科も脳神経外科までも受診して異常がなく、途方に暮れて宮越に相談して、ここに行き着いた、と経緯を話した。 「睡眠中に見た夢は覚えてますか」  当人に心当たりがないのであれば、意識が認識出来ない無意識の領域――深層心理に原因があると考えるべきか。 「夢は……覚えてません」 「このことが起こるまでは、よく夢を見る方でしたか?」 「ええ、時々ですが」 「どんな夢でした? もちろん、話せる範囲で構いませんよ」 「そう……ですね」  彼女が幾つか語った夢の内容は、日常の断片のようなとりとめのない短いエピソードだった。 「貴女に起こっていることが、もし心の問題に起因しているのであれば、すぐに答えは見つからないかもしれません。一緒に、少しずつ探して行きましょう」  規定の診察カウンセリング時間を経過した。今日はここまでだ。告げると、彼女は不満気に眉頭を寄せたが、コクリと頷いた。  就業後、予約システムのスケジュールを開くと、週明けの火曜日6時に彼女の予約が入っていた。
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