かぐや姫の涙
涙の理由(1)
週に一度受けていた診察を、佐江田竹香が連絡無しに休んだのは、8月の第2週のことだ。生真面目に通ってきていた彼女には初めてのことだが、メンタルクリニックの場合、患者が予約を無断キャンセルすることは珍しくない。診察を続けてきた結果、ある種の反応として医師との関わりを避けようとすることもある。これは患者の心の問題が解決に向かう兆候の場合もあるから、一概に悪いともいえない。まぁ、経営的には嬉しくはないが。
だから、キャンセルが続いたり、予約が途切れても、クリニックから患者に連絡をすることはあり得ない。必要になれば、また来院する。それを待つしかないのだ。
『藍田。久しぶり』
クリニックの休みを狙ったように、自宅に電話があったのは、9月最初の日曜の午後だ。おっとりと穏やかな話し方をする低めの声の主は、宮越だ。
「おう、久しぶり。どうした?」
『いきなりだけどな、お前に紹介した佐江田さん、どうしてる?』
彼の声を聞いた瞬間、その話題だろうと走った予感は的中した。
「ああ。彼女、しばらく来てないよ。予約も入らない」
『そうか……』
受話器の向こうから、呻くような呟きが聞こえた。
淹れたばかりのコーヒーを片手に、軽作業用のデスクに着いて、ノートPCを立ち上げる。彼女に関する話題なら、カルテと照合しながら話すべきだろう。
「宮越?」
『佐江田さんな、実は行方不明なんだ』
「はぁ? 何で?」
最後に診察した時のカルテを開く。4回目の診察から、彼女の生育歴を辿っている。この日は、小学2年生の夏休みに父親の田舎に行った思い出を語っていた。祖父母との関係も良好だった。宝石のような星空を見て、感激して泣いてしまったと、恥ずかしそうに語っていたが。
『分からん。お盆の直前から無断欠勤が続いて、婚約者と身内でアパートに踏み込んだけど、身体1つだけ消えていたって。事件性が低いからニュースになっちゃいないけど、ウチの社内じゃちょっとした騒ぎになってる』
身内――お姉さんのことか。
「身内がいるなら、捜索願出したんだろ」
『あんなの当てにならんて。お前も知ってるだろ』
事件性が低いなら警察は動かない。一応言ってみただけの気休めは、一蹴された。
「まぁね」
『なぁ、ぶっちゃけ、主訴の原因って、見当付いているのか?』
「いや……何度か回想法を試しているけど、まだこれといった原因は不明だ」
『ふぅん……そうか』
期待はしていなかった、という返事だな、これは。一口含んだコーヒーが、いつもより苦い気がする。
『藍田。彼女の婚約者ってのがウチの社員なんだが、近々お前のクリニックに行くかもしれん』
「力にはなれんぞ」
『分かってる。医者の守秘義務はコンコンと言い聞かせたが、多分納得していない。迷惑かけてすまんな』
宮越は電話越しに謝罪した。くぐもった声から、あの巨漢が腰を折って頭を下げている姿が脳裏に浮かんだ。
「いや、仕方ないだろ」
そう答えて苦笑いしたが、面倒なことになりそうだと、腹の中では溜め息を吐いた。
宮越の予告通り、週明け早々の翌日。外来の受付終了時間ギリギリに、紺のスーツの男が飛び込んできた。それが、但馬だった。
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