かぐや姫の涙
涙の理由(3)
翌週、予約より5分遅れて、但馬はやって来た。慌てた様子もなく、肩を落とした姿には、益々疲弊の色が滲んでいる。
「但馬さん、睡眠は取れてますか」
勧める前にチェアに身体を預けた彼は、やつれた頬に形だけの笑みを浮かべた。
「ええ……休日以外は仕事に没頭してるので、ヘトヘトなんです。帰宅したらベッドに直行で、気付いたら朝になってますね」
返事に反して充実感が皆無だ。「仕事に没頭」しているのは、余計なことを考えないようにするためだろう。
「先生。竹香は、自分の名前のことを話しましたか?」
「会話の内容については」
「ああ、そうでしたね」
守秘義務があるので、と言いかけた僕を遮った。
「竹が香ると書いて『さやか』と読むんです。珍しいでしょう」
「ええ」
「彼女がポストに預けられた時、身に付けていたメタルプレートがあるんですが、それに記号が書かれていたんです」
「記号ですか」
「はい。アルファベットの筆記体の『t』を2つ並べたようなもので、漢字の『竹』にも似てました」
「ははぁ、それで竹の文字を」
「里親のご両親が名付けてくれたそうです。古風な名前ですよね。髪も、今時珍しいくらいに美しい黒髪が……似合ってた」
はあっ、と溜め息に似た息を吐く。
「そのプレートが見つからないんです。お姉さんが言うには、竹香はとても大切にしていたので、無くす筈はない、きっと彼女が持って行ったんだって」
「他に、無くなっているものはないんですか? 例えば預金通帳とか印鑑とか」
「俺の知る限り、ありません。サイフもスマホも家の鍵も化粧ポーチすら、いつも使っている通勤バッグに残されてましたから」
貴重品を全て置いて消えたのは、必要ないということか。ならば、どうして記号の付いた金属プレートなんかを?
「但馬さん。今更ですが、彼女の部屋の玄関に、鍵は掛かっていたんですか」
「鍵は……開いてました。玄関もベランダも開錠されていました」
部屋の中に荒らされた形跡はなかったと聞いている。彼女の自由意志で出て行った可能性も拭えない。
「お姉さんが、こんな話を教えてくれたんです」
不意に、但馬が続けた。
「小さい頃、竹香に、かぐや姫の絵本を読んであげたのね。かぐや姫が、月を見て泣くようになった部分に差し掛かった時、あの子ね、あたしに聞いてきたの。
『ねぇ、お姉ちゃん。どうしてかぐや姫は泣いたのかしら?』
『どうして、って、それは、育ててくれたお爺さん達と離れ離れになるのよ? 月に帰ったら、もう二度と会えなくなっちゃうでしょ。寂しいじゃない』
そしたらね、あの子、こう言ったのよ。
『でも、元々住んでいた場所に帰るんでしょ? 月に友達や、本当の家族もいるかもしれない。やっと帰れるって、嬉しくて泣いていたんじゃないかしら?』」
「ねえ、先生。先生は、どっちだと思われます?」
永遠の別れを悲しんで泣いたのか。
長きの再会を喜んで泣いたのか。
「竹香は、きっと還ったんです。俺の知らない……遠いどこかへ」
話し終えた但馬は、一層萎れて見えた。不安、憤り、失望、呵責――それらを無理に飲み下したような煩悶を瞳に宿したまま。
規定時間より早く、彼はクリニックを後にした。次の予約は入らず、それ切り来院することはなかった。
【了】
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