かぐや姫の涙
涙の理由(2)
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「昨日、お姉さんに会ってきました」  前回の来院後、予約を入れた診察日時ぴったりに、但馬は現れた。くたびれた表情でチェアにドサリと身を沈め、調査報告でもするかのように、取り出した手帳に目を落としながら話し出した。 「何か手掛かりはありましたか」  佐江田と但馬、2人分のカルテをダブルウインドウで開く。 「お姉さんは、時々竹香のアパートに行ってくれるんです。日記かメモでも、何か手掛かりが無いか、探してくれて」 「日記、ですか」 「日記はなかったんですけど、彼女のスマホとノートPCの履歴に、ちょっと気になるものがあったんです」 「ほぅ……」  彼は、焦げ茶色の手帳の間から挟めていた紙を広げた。プリントアウトした資料のようだ。それを一瞥した後、僕に視線を向けてきた。 「先生、『ファラウェイ彗星』ってご存知ですか」  いきなりの話題転換に戸惑ったが、耳の奥に引っかかりのある響きに、記憶の糸を手繰り寄せる。 「ええと……ニュース? 天気予報? 少し前に、テレビで名前を聞いた気がします」  確か、地球に接近している……とかいう話題だったような。 「ええ。今年の春先に突然発見されて、8月13日の深夜、地球に最接近したそうです」 「はぁ」 「何でも公転周期が酷く長いらしく、次に地球に接近するのは1100年後だとか」  人間の寿命を超えた公転周期を、一体どうやって割り出すのだろう。仮に1100年前の観察記録が残っていても、1100年もの時を隔てた彗星Aと彗星Bを同定する方法など、想像すら出来ないが。 「気が遠くなる話ですね」 「前回接近したのは、900年代の初め、日本が平安時代だった頃です」  天文講義を聞きたい訳じゃない。僕は、僅かに身を乗り出してみせた。 「その彗星が、何か?」 「分かりません。でも、竹香のスマホにもノートPCにも、無断欠勤した8月13日の履歴の中に、検索・閲覧した履歴が沢山あって。ファラウェイ彗星に興味あるなんて、聞いたことありませんでした」 「ファラウェイ彗星ですか。佐江田さんは、星を見るのが好きでしたか?」 「いいえ。特にそういうことはなかったです」  急に知りたい何かがあったのか。その彗星が彼女の失踪に関係あるとは考えにくいが。 「先生。色んなことを話して、分かったつもりになっていた相手でも、知らなかったことって沢山あるんですね……」 「ええ。自分でも、自分自身のことを全ては分からないでしょう? ましてや、どんなに親しくても、他人のことです。誰しも分からない、知らない部分があるのが、普通ですよ」 「そう……ですよね。だけど、毎日会社で顔を合わせて、欠勤する前日まで一緒に過ごしたのに、何も聞かされていないのは、キツいです」 「但馬さん、ご自分を責めてはいけません」 「ありがとうございます、先生……」  弱音を漏らした彼の気持ちをケアしたら、膝に付くほど深々と頭を下げられた。  婚約者の突然の失踪から、もうすぐひと月だ。必死に理由を探し回ってきた彼も、そろそろ精神的疲労と肉体的疲労が掛け合わさって、複合ダメージを自覚し始めたのだろう。無力感のエアポケットに嵌まってしまったのかもしれない。
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