小さな金魚鉢 
#8  洋上の赤い風-3

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岩室いろう権現は石廊崎の突端の窪みに祀られ、船乗りであれば航海の安全を祈り手を合わせる海の守神である。 その昔、播州赤穂から江戸へ塩を運ぶ千石船が石廊崎の沖に差し掛かった時に嵐に見舞われ、難破しそうになっていた。 船長は岩室権現に向かって手を合わせ 「ここを無事に通してくださいませー。無事に江戸にたどり着くことが出来たら、帰りにこの舟の命を奉納しますー」 と大声で叫び権現様と約束した。 すると、空は次第に明るくなり、波は俄かに穏やかになった。 風は千石船の背を優しく押すように帆をはらませ、江戸まで運んだ。 無事に塩を下ろした千石船は帰路に着く。 天気晴朗、波風穏やか。 順調に相模湾の沖を西へ向かう。 遠くに石廊崎が見え始めている。 大仕事を終え、順調に航海する船長は岩室権現との約束を忘れていた。 石廊崎に近づくと天気は急変。 暗礁に引き込むかの如き急な流れが千石船だけを捉える。 周りを見渡しても穏やかに晴れその船だけが木の葉のように波に揉まれているようだ。 「ご、権現様。申し訳ごぜぇません。約束のこの船の命をお納めくだせぇ」 船長は自ら帆を下ろし、斧で帆柱の根元を叩き切って海へ投げ落とした。 長さ7間近い(約12m)帆柱は権現様の足元に吸い込まれるように流され、岩を砕くような白波に乗って社の土台となった。 すると海は何事もなかったように静まり千石船は赤穂に戻ることができたそうだ。 不思議な話しは舷蔵たちも子供のころから何度も聞かされていた。 その日の浜は穏やかだったが朝飯の支度にかかる女たちがなにやら騒いでいる。 「伊作爺さん、ちょいと来ておくれ!」 朝の漁の片付けをしていた伊作が声の方へと向かう。少しばかり沖の刺し網を仕掛けた目印の近くに何かが見える。 「大樽のようじゃな?」 「爺さん、なに言ってんだい!樽じゃなくて、樽に人間みたいのが掴まってんのが見えないのかい!」 伊作にも、後から出てきた舷蔵にも人の姿のようなものが見えた。 人とも猿とも男とも女子とも区別がつかない何か。 とにもかくにも、まだ動いている。 助ける。 そう思った瞬間に舷蔵は着物を脱ぎ、下帯一丁で樽に向かって抜き手を切った。 長く黄色い髪 「異国の者か!」 敵か味方かわからぬとも、助けると思って泳ぎ出した以上、何事があっても助ける。舷蔵にはその一心しかない。 「舟!」 舷蔵は樽のそばから伊作に向かい手を挙げる。 漁に使う舟を漕ぎ出す伊作。 「異国の者?」 伊作もすぐに気づいたが鮪の大物を揚げるように帯に手をかけ舟に引き上げた。 舷蔵は長閑な顔で異国者が掴まっていた樽を押すように浜へ泳ぎ戻った。 「鮫にやられてるなあ。こいつは長くは持たねえな」 異国者の右足は脛の真ん中あたりから食いちぎられてなくなっていた。 網小屋の奥から大刀をひっつかんだ舷蔵が現れる。 「すまんな。少し痛いがすぐに楽にしてやる」 手拭いを異国者の顔にパッと投げかけたと同時に抜刀。 そして、誰もが目を伏せた瞬間に異国者の右足が膝の上から切り落とされた。 「これで助かる。」 舷蔵は刀を一払いし、血を振り落とした。 伊作が傷口に焼酎をぶっかけ、 「痛てえのはこれからだ、命あるだけでありがてえと思ってくんなよ」 話しかけながら、焼けた鉄の棒を傷口に押し付け止血をし、仕上げにもう一度焼酎をぶっかけた 異国者は熱と足の痛みにもがき苦しみ、意識朦朧のまま4日が過ぎた。 その間、異国者の面倒を看ていたのはおこうである。30歳を少し越えてはいるが海辺の育ちにしては色白の女である。 3年ほど前に夫を海で亡くしたことから、此度は異国者の命を助けようと看病の役を自ら買って出た。 沢の水で冷たくした手拭いで汗をかいた顔を拭き、傷口には薬草を貼る、異国者が何か呻けば声を掛け、権現様の方角を向いては手を合わせた。 「大丈夫だよ、舷蔵さんが助けようと言ったのだから、あんたは絶対助かる。助かる見込みがなければ私だってこんなに面倒なんて見ねえんだから」 おこうの言いぐさももっともである。 消えゆく運命なら静かに送り、助かる運命ならなんとしても助ける。 それが海で暮らす人間たちの当たり前の生き方だった。命を頂き、それを糧として生きる者たちなりの生への感謝と死生観が垣間見える。 5日目の昼前に、異国者は自らの意志で体を動かし、目を開けた。 おこうは大声で 「舷蔵さーん、伊作爺さーん!目え覚ましたよ。助かったみてーだよ。」 と、浜で網を直していた2人を呼び立てた。 舷蔵らは落ち着いた様子で異国者がいる小屋へ向かう。 「おこう、でかしたぞ。まずは水を飲ませてやれ。それから魚で出汁を取った汁で粥を作ってやれ。」 「やだなぁ、舷蔵さん。そんなのいつ目を覚ましてもいいように毎朝支度をしとります。海じゃ女は男の帰りを待つだけですから」 笑ったおこうが飯の支度のために小屋の外に出る。 「あんた、お帰り」 と言ったように舷蔵には聞こえた。 「寝たままで、よい」 異国者は言葉を理解出来ている。 「名は?」 「タスケテイタダキ、アリガトウゴザイマス。Andrewとモウシマス」 「アンドリュ??? アンドウ リュウさんかい。立派な名前だ。儂は伊作、こちらがここの頭領 河内舷蔵さん。ゲンゾーさんだ。」 ウェーブがかかった金髪に6尺(180cm)近い大きな身体、青い目と白い肌。何もかもが珍しかった。舷蔵たちはリュウにそれ以上は聞かず 「好きなだけここにいて構わぬよ。この小屋はリュウさんが自由に使うといい。礼なら、あいつに言うんだな。」 粥が入った鍋を持って戻ったおこうを指差して2人は小屋を後にした。 何日漂流してここにたどり着いたのかはわからないが、足を切り落とされて5日目。 リュウは粥を口にすると、深く息をして安堵の表情を見せた。 おこうに言葉をかけるでもなく、ただひたすらに一鍋の粥を貪り食った。 「足りたかい?食べたけりゃまだあるよ」 「ゴチソウサマ、モウ オナカイッパイ」 おこうは漁から戻り、美味そうに飯を腹一杯喰う亡き夫を思い出したのかもしれない。 「龍さんって言ったね。安藤龍アンドウリュウさん。私はこう。おこうって呼んでちょうだいね。あんたが元気になるまで私が面倒看てあげるから、何でもいうんだよ」 おこうは鍋を片付け、外の炊事場で湯を沸かしている。 その中に干した草のような物を入れて、さらに沸かし続けた。 「痛み止めの煎じ薬だよ。苦いんだよー。ここの男たちも怪我をしたらこいつを飲んで、みんな元気になるんだ」 おこうは湯飲み茶碗を龍に差し出した。 10日もするとかなり体力は回復してきた。 舷蔵が太刀で落とした傷口も切り口がきれいだったため塞がり始めていた。 まだ歩くには早いなと思いつつも舟を漕ぐ櫓(ろ)に使うために山で切り出しておいた樫の木を小刀で丁寧に削り、松葉杖を作っていた。 杖の先には鉄を被せ、手元には龍の鱗を象った細工を施してやろうと考えていた。 それからひと月。 舷蔵の杖が出来上がる頃、龍は自分で立ち上がりおこうの肩を借りて歩くようになっていた。 浜に流れ着いた流木を杖の代わりに探していたところに舷蔵が松葉杖を持って現れた。 これまでの間、龍の面倒を看るのはおこうに任せ、できるだけ小屋に近づかないようにしてきた。 「龍さん、おはよう。あんたが探してるのはこいつだな?」 「ゲンゾーさん、おはようございます」 龍は両脇に松葉杖を挟み、固く締まった浜の砂の上を自力で進んだ。 「ありがとーゴザイマス。これでおこうさんがいなくても動くことができます。私、お礼したいです。」 「なーに、礼ならとっくにいただいたよ。お前さんが掴まってた木樽の中身は酒なんだろ?たまらなくいい匂いがしてるのだよ。まあ、傷が治るまでは手を付けないように我慢してるんだがね。そろそろ....乾杯してもよさそうだ。今夜、飲るかい!」

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