小さな金魚鉢 
#43 ムーブメント

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

箱根山の木々が上の方から赤く色づき始めている。 11月、穏やかに晴れた日々が続いていた。 陽は先日受けた健康診断で視力が人並みの1.0まで落ちたことをとても気にして、人生初の眼鏡を買った。 「おい、ブチよ。50歳過ぎて近眼だってよ。老眼じゃなくて。おかげで仙石原のススキの絨毯も紅葉のきれいさもわかるようになったぜ」 「どういう意味だよ」 「視力がよすぎると、いろんなものがハッキリ見えすぎて情緒がないんだ。ススキも紅葉もただの汚ねえ枯れ草と枯葉だったんだ、去年までは。今はエッジが少しぼやけていい感じに見える」 「ああ、確かにお前と車で出かけると話しが合わないな。500mも先の看板の話しをされても俺がそれを見るのは何十秒も後だからな」 「眼鏡を掛けても去年の裸眼のレベルにはならなかったよ。きれいな女性のマスカラがダマになっていても気にならない」 「そいつは良かったな、お前の時計、分解掃除終わったぞ」 「ああ、ありがとう」 陽は長年愛用している懐中時計の分解掃除を2年に1回ブチに頼んでいた。 機械式の懐中時計を見つけてはコレクションしていたのは20代の頃だ。新品もジャンクも、価値があるビンテージも混ざっていた。新品でも毎日数分遅れるものもあったが、陽はその遅れ具合を気にすることもなく楽しんでいた。 「まだ、しばらくは持つかな?」 「俺が生きている間は少なくとも動かなくなることはない。その訳は俺が直すからだ」 ブチなら例え歯車が磨り減って使い物にならなくても似たようなサイズの歯車を削りだして直すだろう。 「ブチ、今年はもう1つ分解掃除を頼むかもしれない」 「ああ、わかった」 また、ジャンク品に目が止まって衝動買いしたのかもしれない。 「明日から詩穂が戻って来る。引っ越して来る訳じゃないんだが1週間ぐらいはいるはずだ」 「よかったな。6月に顔を見せたきりだもんな」 「仕事とかもあるだろうし」 「時計って、陽の一番お気に入りのヤツか?」 「そうだ、目玉みたいなガラスの球体の……」 「それなら覚えてる」 今日、分解掃除が終わった時計はローマ数字の文字盤に真鍮のケースというありふれたアクセサリーみたいな物だ。 目玉みたいな方は5センチにも満たない球体の物。 2つの時計はどこから見ても全く違う物で、陽が買った店も違っていた。 若かった陽はありふれた方をタキシードの下のウエストコートのポケットに入れて、その先のチェーンのTバーをボタンホールに掛けていた。 ガラス玉の方はバックのハンドルにぶら下がっている。 ある日、ブチのカメラ屋に遊びに行くと親父さんが出てきて 「また、そんなオモチャを買ったのか? ちょっと見せてみろ」 陽がガラス玉のような時計を手渡すと、 「面白いこともあるもんだな、今、預かってる普通のヤツと心臓ムーブメントが同じなんだよ」 量産品ではよくあることだ。 大量に作ったムーブメントを様々なデザインで商品化することはよくあることだ。 しかし、たまたま陽が買った2つの時計のムーブメントが同じなのは偶然以上の何かを感じた。 陽は自分の懐中時計をじっと見て、 「こいつと目玉は見た目も雰囲気も全く違うもんだ。だけどな、中身は全く一緒。違う場所で同じ時を刻んでいる」 「お前と詩穂みたいだ……、そう言わせたいのか?」 陽の家のテーブルから目玉のような時計が消えたのは、詩穂がこの街から消えた日だ。 残されたメモに書かれた 【プレゼント】の意味は、この時計のことだったのかも…しれない。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません