小さな金魚鉢 
#44 レースの行方-1

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陽と詩穂が出会ったのは1999年の4月の日曜日の朝のことである。 チューニングした詩穂が乗るユーノス・ロードスターを尾根道のワインディングであっさり抜き去ったのは陽が操る銀色のSUZUKI GSX-1100S KATANAであった。 目いっぱいの速度域でコーナーに突っ込む詩穂はあっさりと陽に抜かれた。 駐車場で口説き半分の気持ちで詩穂に挑んでくる連中は多かったが、この尾根道伊豆スカで抜かれることはほとんどなかった。 詩穂は自分をあっさり抜き去ったバイクに興味を持った。正確にはそのバイクを操るライダーに興味を持ったのである。 抜かれないためにはパワー、そしてバイクより重い車を前に押し出すためのトラクションが必要だった。大切にしていたロードスターを下取りに出してポルシェ・ボクスターを買った。 KATANAの持ち主は意外なほど近くにいた、駅前の商店街を抜けた住宅街の中にある看板のないバー、金魚鉢のオーナー河内陽かわうちあきらである。 陽は尾根道で詩穂のロードスターを抜いたことを覚えていなかった。 陽の友人、ブチに連れられて初めて金魚鉢で陽と話した時には詩穂はリベンジに燃えていたが、次第にボクスターでもあの尾根道ワインディングでレースをしても陽を抜くことは難しいと考えるようになった。 8月の土曜の夜、まだぼんやり夕方の明るさが残る金魚鉢のカウンターに詩穂の姿があった。 Blue Moonという薄紫のショートカクテルを飲んでいる。 カウンターの上で暮らす黒い出目金のクロがいる古備前の鉢には甘い香りの大輪の薔薇が活けてある。 この花もBlue Moonというようだ。 クロはこの薔薇の花と詩穂が好きな様子だ。詩穂が来ると尾鰭で水面を叩いてからじっと詩穂を見ている。 詩穂はクロに餌をあげながら 「陽さん、明日は日曜日だから尾根道伊豆スカ行きますか?」 「天気はよさそうだな」 「バイク、暑いですよね」 「ボクスターだって幌を開けてたら暑いだろ?」 「エアコン、ついてます! もしよかったら運転のコツとかいろいろ教えてください」 「もう慣らしは終わったんだな? 朝、迎えに来てよ。4時。夜明けから走って観光客が出てきたら帰って来よう」 翌朝、夜明け前に詩穂は金魚鉢のガレージにボクスターを止めた。 白いTシャツの上に杢グレーのジップアップ・パーカーを着ている。陽はエンジン音を聞くと同時に自宅の玄関からデニムに薄いレザーシャツを着て出てきた。 「さあ、行くか!箱根峠から入って軽く天城高原まで流そう」 詩穂は国道1号線国1を上がって、頂上の信号を右折した。 日曜日といってもこの時間はまだ混雑していない。すれ違うのは純粋にドライブを楽しむ同じような連中が多かった。 ボクスターはサイドウィンドウを上げていれば何とか会話もできた。 陽は所々でブレーキングやアクセルを開けるタイミングなどのアドバイスを送っていたが、詩穂は飛ばすわけでもなくドライブを楽しんでいる様子だった。 伊豆スカイラインを1往復すると観光客の車が混じり始めた。富士山が見える日のドライブは気分がいいが、わき見をした運転手ドライバーがセンターラインを越えて思わぬ事故も多い。 「詩穂、亀石のインターで出てどこかで休憩しようぜ。朝飯を食おう!伊東方面でも大仁方面でも店は任せるよ」 そう伝えると、ボクスターのハンドルを切ってインター出口を大仁方面に向かった。

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