小さな金魚鉢 
#28 或る雨の情景

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雨の季節が訪れた。 昨日の夕方から降り始めた雨は今日の昼過ぎに上がり、ひさしぶりに太陽が顔を出した。 沼津港近くのバー、金魚鉢のオーナーバーテンダー河内陽かわうちあきらは開店前の準備を終えて空を眺めていた。 風もなく重苦しい雲が空を覆っている。 30分後に現在地付近で弱い雨。 「便利になったもんだ」 スマートフォンが知らせる雨の予報に目を落とした。 客商売をしていると、天気はとても気になるものだ。 「こんばんは」 開店時間直後に若い女性が顔を出した。右手に男物の長傘を持っている。 「あの・・・ 傘ありがとうございました」 陽には傘を貸した覚えがなかったが、傘自体には覚えがあった。10年ほど前に買った物で持ち手に【金魚鉢】と刻印したプレートが打ち込んである。 「昨日の夕方、お借りしたんです。金魚鉢と書いてあったので、ここの方なのかなと思ってお返ししに」 「それはわざわざありがとう、どうぞ中へ。ちょっと待ってて」 陽は階段を下りてTaylor KEITOに向かった。 「前嶋くん、もう店は終わりだな、ちょっと上に顔出してよ」 テーラーのオーナー前嶋経人まえじまけいとは陽の後を追うように2階のバー、金魚鉢の扉を開けた。 「ああ、君は」 「昨日はありがとうございました」 陽の傘を借りっぱなしにして、さらに又貸ししたのは経人であることは間違いないようだ。 「千夏ちなつです。よかったらチナって呼んでください。子供向けのヒップホップダンス教室の先生をやってます」 カウンターの上にジントニックが2つ並ぶ。 「では、乾杯」 緑に染めた髪に派手目のメイクが似合っている。 「うわぁ、ジントニックってこんなに美味しいんだ!缶のしか飲んだことなかったから。それに金魚鉢ここに一度来てみたかったんだけど、なかなかきっかけがなくて。雰囲気合わないかなって思ってたから」 チナと経人がジントニックを飲み終えるタイミングで心療内科医の大村香代おおむらかよが扉を開けた。 「あら、チナちゃん。こんばんは」 「先生、こんばんは」 「経人くん、お邪魔じゃないかしら?」 香代はチナの隣に座った。 小さな酒場のカウンターは地域のコミュニティーホールのような場所でもある。 まして、ドSの呼び声高き香代先生に向かって 「先生、邪魔です」 などと言える訳もない。 「2人は知り合いだったのね」 「昨日、傘をお借りしたんです」 昨日の夕方、予報を裏切って急な雨が降った。 仕事を終えた経人は陽から借りたまま店に置いてあった傘を差して自宅に帰っていた。 商店街と国道の大きな交差点の信号は赤。 傘を差している人、商店街の屋根の下で信号が青に変わるのを待つ人、そんな中でチナは傘も持たず空を仰いで立っていた。 信号が変わり、傘が一斉に動き出す。 経人の目にはチナだけが色彩を持ち、他はモノクロームの背景にしか見えなかった。 踊るようなステップで交差点を進むチナ。 すれ違う瞬間に傘を握らせる経人。  僅かな時間、視線が合う。 経人にはチナの顔が雨に濡れているのか、泣いているのかはわからなかった。 振り返ることなく横断歩道を渡りきり、そのまま距離は離れていった。 「ふぅん、そんなことがあったんだ。まるでミュージカルのワンシーンね」 香代が陽に小さく目配せする。 カウンターにジン、コアントロー、抹茶リキュールが並ぶ。 レモンを搾ってシェイカーに入れると大きなストロークで振った。 丸みを帯びたカクテルグラスにグリーンの液体が流れ込む。 「或る雨の情景」 陽はチナと香代の前にグラスを置くとこのカクテルの名前を言った。即興のレシピであろう。 チナの髪の色と同じだった。 香代はチナとグラスを合わせ 「で、どうして泣いてたの?」 「・・・・・・。」 「理由なんかないか。ただ泣きたい時ってあるのよね。女子だから」 チナと香代は顔を合わせて頷いた後、爆笑している。 「男の人って、泣いている女の子を見ると、どんな感じなんですか?」 チナが男子2人に追い討ちを掛ける。 「下心なく助けるようにと、陽先輩に教わりました」 経人はひっくり返った声でなんとか逃げを打つ。 陽は香代が女子と言ったことに違和感を覚えつつ、 「ま、前嶋くんの言う通りだ」 前嶋は弱々しい声で 「マスター、ジントニック、濃いめでお願いします」 そう言って深いため息をついた。 雨は大地を潤し、山の緑を深く育てる。

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