小さな金魚鉢 
#42 じゃじゃ馬のお散歩

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

実の娘、里紗と暮らし始めた金魚鉢のバーテンダー河内陽かわうちあきらが最初に教えたのは車の運転だった。 バイトがない水曜日の朝は毎週のように母である詩穂の持ち物であるポルシェ ボクスターに乗って国道1号線こくいちを箱根峠まで上がり、十国峠を抜けて伊豆スカイラインいずスカを流す。 飛ばすわけではなく、制限速度+アルファぐらいの速度でシフトチェンジとブレーキの使い方を身体に叩き込んだ。 ミッドシップのボクスターで限界を超えることは公道では難しいが4つのタイヤが路面とどうコンタクトしているかを把握する感覚を教えたかったのだ。 軽いフライホイールのおかげでボクスターのエンジンはアクセルの動きに即座に反応する。 普通のエンジンと比べたら神経質と言っていいだろう。 焦ってアクセルを踏んでも、ビビってアクセルを戻しても微妙に挙動を乱す。 詩穂はボクスターに慣れるまでその動きを特に恥ずかしがっていた。 教習車の次に乗った車がボクスターとはある意味幸せだ。 飼い慣らせば思いのまま道を駆けてくれる。 車の操り方以外にも娘に教えたかったことがある。 暑くても、寒くても雨以外の天気ならフルオープン。 オープンカーを転がす陽と詩穂の揺るぎない流儀を教えたかっただけなのかもしれない。 亀石峠の手前のスカイポートの駐車場に入る。 「パパ、今日の里紗の運転ドライブどうだった?」 運転中は巻き込む風とエンジン音で会話は成立しない。 話しがあれば車を停めた方がいい。 「かなり上達してる。安全マージンも取ってコーナーの出口が見えてきてる感じだ」 「アクセルを開けるより、離すタイミングの方が難しいの」 「離すから暴れるんだ、少し戻すだけでいい」 「次はそうしてみるね」 運転のことより、パパと呼ばれることに陽は嬉しさと恥ずかしさと違和感を覚えた。 里紗は陽と2人の時はパパと呼び、他人には父、お父さんと呼び分けている。 それは母である詩穂がこの日が来ることを見越して教えていたのだと陽は思っている。 「里紗、仕事はもう慣れたか?」 「うん、PCでできることはだいたい覚えた。採寸データや補正の入力とかは。でも難しいのはメールでのやり取り。顔が見えないだけにご要望を全部聞き出せてるのかがちょっと心配だけど前嶋さんと相談しながらやってる」 「里紗はこれからどんなことがやりたいんだ?」 「せっかく専門学校通わせてもらってるから卒業して、このままKEITOでお仕事したいな。レディースのオーダーもやりたいし」 「レディーススーツのオーダーはまだ少ないからいいかもしれないな」 「スーツもやりたいけど、カットソーのオーダーにチャレンジしたいの」 「それはまだまだ珍しい。ちゃんと前嶋くんと相談しながら組み立ててみるといい」 それは普通の父娘の普通の会話だった。里紗が陽を父と認識しているのか、仲がいい近所のおじさん程度の認識なのかはわからないが、少しずつ話す内容は増えていった。 さらに伊豆スカイラインいずスカを終点まで流す。 「よし、今日の練習は終わり。帰りは俺が走る」 そう言って運転席ドライビングシートに陽が座った。 シート、ミラーをしっかり調整しクラッチ、ブレーキを踏み込んでポジションを決める。 「さあ、行くか」 陽はクラッチをポンと繋ぎ、ゆっくりボクスターをスタートさせた。 サイドウインドウを上げておけば多少の会話ができる。 「ねぇ、パパ、富士山」 帰り道は富士山が見えるポイントがいくつもある。 「家からでも、店からでも富士山見えるだろ?」 「富士山って見る場所や時間が違うと見え方が違うから不思議」 「誰と見るか、どんな気分で見るかによっても違うぞ」 「パパが運転、私が助手席で見る富士山が好き。だってずっと見ていられるから」 里紗が見ていたのは富士山ではなく陽の横顔だった。 「パパの頭って白い雪が乗っかった富士山みたいだね」 「何だよ、それ。山を下りたら沼津名物を食いに行くぞ!」 「やったー、ボルカノ!」 「残念だな沼津名物は他にもある。少し並ぶぞ」 10時半 車は沼津市内に入った。 旧国道1号線と国道141号線の交差点を北に曲がり国道246号線に入るとすぐにJRのガードがある。 それを越えると右側に何人か並んでいる。 「1回目で入れそうだな」 そう言って駐車場にボクスターを入れた。 北口亭 1軒家のような小ぎれいな店だが沼津では有名な餃子店である。 「やったー、ネットで見たけど1人で来るのはハードル高そうな店」 「そんなことないだろ? 野中の婆さんなんかいつも餃子をつまみに昼からビール飲んでるぞ」 陽たちの前には7人が並んでいる。後ろにも続々と列が延びている。 「11時に開店だ。その前にこの店のシステムを教えよう。メニューは餃子、ライス、味噌汁、それからラーメンだ。餃子は大、中、小の3種類でサイズじゃなく個数の違い。大は10個、中は8、小は6だ。餃子とライスを注文すれば味噌汁は勝手に付いてくる」 「シンプルなのね」 「注文するときは餃子の大とライスなんて言うのは観光客だ。沼津の人間なら大ライス!と言う。餃子屋さんだからラーメンはあまり期待しない方がいいかな」 やがて暖簾が店先に出て開店した。陽たちは1巡目で店に入ることができた。 「私は、中ライス」 里紗が注文すると 「河内さんは大ライスの大盛りね。持ち帰りおみやげは10個焼きますか?」 店員はいつも通りの陽の注文を確認した。 「お土産10個を2つ頼みます」 陽は経人の分も注文した。 やがて餃子が焼きあがる。その間にも電話で予約した客が次々に取りに来ている。中には100個以上持ち帰る強者もいる。 テーブルに置かれた餃子を見て 「わぁ、すごい大きさ!」 普通の焼き餃子と比べると1.5倍ほどのボリューム感。 酢醤油のタレとからし油を小皿に入れて、さらに唐辛子を少々。 「火傷するなよ」 陽は大きな餃子をひと口で行く。 里紗は、まずは箸で2つに割った。まるで小籠包のように肉汁が溢れ出す。 「よい戦いになりそう、いただきまーす」 そう言って長い髪をゴムで束ねた。 「里紗、自分で餃子作ったことあるか?」 「何回かあるかな、ママと一緒に」 「焼く時の順番覚えてる」 「最初にお湯を入れて蒸してから、お湯を捨てて焼いたかなあ」 「ふつうはそうだな。最後の焼きで皮がパリッと香ばしくなる。ここのは逆だ。先に焼いて、その後で蒸すから皮までしっとりジューシーだ」 焼き餃子でもない、蒸し餃子でも、水餃子でもない独特の餃子を出す店が沼津には2件あるが姉妹店でも暖簾分けでもないということになっている。 「もう大丈夫、熱くない。肉汁を1滴だって逃がさないんだから!」 2つ目は里紗もひと口で行くようだ。 餃子を口に運ぶ箸を持った里紗の手の動きを陽は見ている。 箸をうまく使えなかった若いころの自分を反省し、詩穂がいろいろなことを里紗に教えてくれたことを実感した。 2人とも餃子も、紅生姜が添えられた平皿のライス、味噌汁も平らげたころ 「河内さん、持ち帰り10個が2つ、お待たせしました」 「お、ありがとう。里紗、混んでるからそろそろ行こうか?」 「ごちそうさまでした」 元気よく店員さんに声をかけて里紗が先に店を出た。 店の前には入った時よりたくさんの人が並んでいる。 里紗はエンジンをかけてボクスターの中にいた。 陽は10個入った餃子を1箱を里紗に渡し、 「前嶋くんのところに持っていってくれ。それから車のことは詩穂に許可をもらってあるから、今日から里紗が自由に使っていいぞ」 「やったー、パパの運転教室、合格なんだね」 「無茶はするなよ。俺は歩いて戻るから、あったかいうちに持っていけ」 陽はボクスターが見えなくなるまで手を振って見送った。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません